ガルシアの首(Bring me the head of Alfred Garcia):サム・ペキンパー

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サム・ペキンパーは、「ゲッタウェイ」ではひたすら逃げ回る男を描いた。「ガルシアの首(Bring me the head of Alfred Garcia)」は逆に、ひたすら追い求める男を描く。方向は逆向きではあるが、あることをひたすら追求する点では共通している。ペキンパーは、人間が何ごとかに夢中になっている姿に、魅せられているように見える。

主人公はメキシコのしがない芸人ベニー(ウォーレン・オーツ)。その男が追い求めるのは、かつての親友ガルシアの首だ。というのも、ガルシアの首には多大な懸賞金が課せられているからだ。その首を依頼主のもとに持ってゆけば多額の報酬が手に入る。いまの惨めな境遇から抜け出せるのだ。

ベニーが賞金稼ぎをする気になったのは、やくざの二人組みからガルシアの首を一万ドルで引き取ると言われたからだ。そのヤクザたちは、一次依頼者に首を持ってゆけば100万ドルもらえることになっている。賞金をねらっているのは他にもいる。そういうなかで、男たちがガルシアの首を求めて血みどろの争奪戦を繰り広げるというわけだ。

たんに首を求めて追い掛け回すだけでは能がないと見たか、ペキンパーはそこにいくつかのサブプロットを絡ませる。情夫のエリータ(イセラ・ヴェガ)とのかけひきとか、首の追求とは全く関係ないいきずりの二人組みとの格闘とか、ガルシアの家族たちとの確執とかである。そういうすべての要素の絡み合いの中から、ベニーはついにガルシアの首を独り占めにしたうえで、一次依頼者である農園主のもとに乗り込む。しかしベニーは金をとって引き下がるのではなく、その依頼主を殺してしまう。こいつのために自分の愛人が殺されたのをはじめ、16人もが死んだのだ。気まぐれからこんな禍を引き起こしてのうのうと生きていられるのは許せないと思ったのだった。

とにかく16人も死ぬことからわかるように、この映画は暴力的なシーンであふれている。究極の暴力映画といってよい。それでいながらあまりグロテスクさを感じさせないのは、殺しの行為になにがしかの理由があるからだろう。ヤクザがガルシアの家族を殺すところはひとかけらの人間性も感じさせないが、ベニーがそのやくざをはじめ悪党どもを殺すことには何がしかの理由がある。理由がある行為には、人は一定程度の同情を覚えられるものだ。

映画の舞台がメキシコであることも、暴力性を昂揚した形で見せているということもある。「ゲッタウェイ」では、主人公のマックィーンたちは、メキシコに逃れることで司直の追及を逃れることができた。つめりメキシコは、無法地帯として米国民に受け取られていたわけだ。この映画の中のメキシコも、そうした無法地帯の印象があふれているが、面白いことに、メキシコで無法行為を働くものたちはみなアメリカ人なのだ。

ベニーは、ガルシアの墓を暴いて首を切り出そうとするが、それに対して情婦のエリータが強く反発する。彼女のいささかの宗教感情が、そうした行為に拒否感を覚えさせるからだ。この辺は、キリスト教文化圏に生きる人々の素朴な感情が伺われて、我々日本人には興味深い。結局首を切り落としたのは別の悪党たちで、エリータはその際に巻き添えを食って死ぬことになる。ベニーがエリータの仇をとったことは言うまでもない。






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