白河の関に立つ

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今回の旅行については、高湯温泉の硫黄の湯につかることとともに、白河の関に立ちたいという思いが強かった。それで松子に特にお願いして、白河の関に寄ってもらった。白河の関については、ここで饒舌を振るうこともないと思う。能因法師、西行法師そして芭蕉という具合に名前を連ね、それらがみな白河の関と縁があるといえば、それがどのような縁なのか、日本人なら知らぬものがないと言ってよいのではないか。

というわけで、二日目は朝風呂を浴び、バイキングの朝食をとったあと、さっそく車を飛ばして白河の関に向かった。その関跡と呼ばれるところは、旧奥州街道に面して存在しており、背後には小高い丘を背負い、そこにちょっとした神社があった。この関は、鎌倉時代以降は長く閉鎖されて跡形もなくなっていたところを、徳川時代になって、白河藩主松平定信によって発掘されたのだと、関跡を示す石碑の近くの掲示板に書いてあった。それ故芭蕉がこの関を訪れて、先人の業績をしのんだ時には、ほとんど関所らしいたたずまいはなかったはずである。それにもかかわらず、芭蕉は関に込めた万感の思いを、奥の細道の中で披露している。やはり想像力が豊かだったのだろう。

関跡で一人の地元の老嫗と出会い、しばらく世間話をした。その老嫗が一頭の若い柴犬を連れていて、これが人懐っこく我々にじゃれかけてきた。小生も両足で太腿のとろこに抱き着かれたが、それよりも山子の細君のほうが気に入ったらしく、しきりと彼女に戯れかけていた。それを見た老嫗は、この子は男の子なので、女の人が好きなのですよ、と説明してくれた。この老嫗が、近所にうまいラーメン屋があるから是非食べていきなさいと勧めてくれた。なんでも、近県一帯からこの店のラーメンを食いにわざわざやって来るのだそうだ。

当初の予定では、白河駅近くのソバ屋で割り子そばでも喰うつもりだったが、折角地元の人も進めてくれるのだし、味もよいだろうと期待して、歩いて幾ばくもない距離にあるそのラーメン屋に入った次第だ。時間はまだ正午に間があったが、すでに多くの客が入っている。この様子ではよほどうまいものを食わせるのだろうと期待しながら、当店おすすめの中華そばをたのんだところ、鳥の出汁を使った伝統的な味で、油がぎっとりと乗っているだけ、当世好みにできていた。見てくれは、昨年尾道で食ったラーメンに似ているが、味は、こちらの方が濃厚に感じた。

食後南湖公園を訪ねた。これは周囲二キロばかりの湖を中心にして、その傍らに翠楽園という回遊式庭園が造営されている。これは、やはり定信が造成したものであって、中心に西湖に見立てた池がある。ただこの庭園に入るには入場料を払う必要があると言うので、我々は中には入らず、玄関から覗き見るにとどめた。その代わりといってはなんだが、南湖神社でお祓いをし、また土地の酒をごちそうになった次第だ。

その後、白河城に立ち寄った。この城は、三十年ほど前に建設されたもので、徳川時代そのままの姿ではない。白河は、戊辰戦争の戦場になったこともあって、もともとあった城は、その際に焼かれてしまったのだそうである。例の東北大地震の時には、石垣が派手にくずれ、その修復作業がいまだに行われているそうである。ここの石垣は面白い工夫があって、石工の遊びが感じられる。たとえば、石を円形に組むといった具合である。それで強度に影響がないのかどうか、筆者にはわからぬが、少なくとも先年の地震では崩れてしまったわけだ。

白河城の見物がすんだところで、午後二時にもなり、また夕方からは雨が降るとの予想もあったので、ここらで引き上げようということになった。そんなわけで、高速道路をとばし、羽生のサービスエリアで山子夫妻と別れ、四時ころには新宿に舞い戻ってきた次第である。次回は、来年の初春ごろに、箱根あたりに短いドライブ旅行をしようということになった。





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