幸徳秋水の遺書

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幸徳秋水は、明治43年の6月に大逆罪の容疑で逮捕され、翌明治44年1月に死刑の判決を受け、一週間以内に刑を執行されて死んだ。秋水の共犯とされた24名にも死刑が言い渡されたが、そのうちの半分は明治天皇の恩赦が行われ、刑一等を減じられて無期懲役となり、秋水を含めた12名が実際に死刑になった。この事件は、その後の研究によって、権力によるフレームアップであったことが明らかにされている。そのフレームアップを検事として指揮したのは、後に総理大臣に上り詰めた平沼麒一郎だ。平沼は、首相桂太郎のほか、明治天皇自身の強い意向を受けて、このフレームアップを指揮したと、研究者の一人神崎清は指摘している。

ここでは大逆事件の詳細については立ち入らない。だが注目してよいのは、その法理の根拠とされた大逆罪というものが、死刑かあるいは無罪かのどちらかしかないという無茶苦茶な罪刑であったこと、また、共謀罪が広く適用されて、事実上主犯者と何らかのつながりがあったということだけで、有罪(死刑しかない)とされたことである。この大逆罪は、先日安倍政権が強硬成立させた共謀罪の原型となったものである。それゆえ人は、秋水をめぐる大逆罪の事案を研究することで、今後日本の司法でどのようなことが起こりうるか、シミュレーションすることができよう。

秋水は、獄中につながれていた半年ほどの間に、「基督抹殺論」を完成させたほか、遺書というべき文章をいくらか書き残した。それらはながらく監獄の片隅に埋もれていたが、昭和の敗戦後に発見されて公開された。ここではそのうち、獄中から弁護人に送った手紙と、死刑判決を受けてその執行までの短い期間に、自分の生死についての考えを記した文章「死刑の前」を取り上げたい。

手紙のほうは、明治43年11月20日の記載がある。収監された秋水は、連日検事による取り調べを受けて、心身ともに疲弊し、とても文章をかけるような状態ではなかった。取り調べが終わって公判に臨むようになって、やっと文章を書く余裕ができたので、秋水はかねて懸案だった著作に手を付ける一方で、自分の取り調べをめぐる、日本の司法制度の問題点について指摘している。

とはいっても秋水は、自分が無罪になりたいからそんなことを書き送ったわけではない。秋水は、自分の死を覚悟しており、どんな判決でも従容として受け入れる準備ができていた。ただ自分の巻き添えをくってとらえられた大勢の人々の身の上を思うと心が痛む。そこでうまく物が言えないそれらの人々に代わって自分がものを言うのだと断っている。

秋水がもっとも強く指摘するのは、検事による取り調べのやり方だ。質問のしかたは誘導尋問に似たもので、教育を受けていないものは、簡単にその誘導に引っかかってしまう。また、尋問の結果を調書にする際、検事が一方的に作成して、それについて容疑者に署名・確認させるという方法をとっている。しかし、取り調べで疲労困憊している容疑者たちには、調書の内容を理性的に吟味する余裕はなく、事実上検事の言い分を追認するように迫られる。自分のようなものさえ、検事の取り調べに対して十分な対応ができなかったのだから、ましてほかの多くのものは、検事の言いなりになった可能性が高い。それは彼らにとって死を意味するわけだから、自分としては心苦しい。そういった趣旨のことを秋水は、この手紙のなかで表明しているのである。

こうした秋水の指摘は、基本的には今日でもあてはまるところがある。警察も含め司法側の調書は官憲によって作成され、被疑者はそれを追認するという形をとっている。その結果、自白の偏重とあいまって、多くの冤罪を生んできた。大逆事件の場合は、調書の内容を認めることはストレートに死刑につながるわけで、慎重でなければならない、という気持ちは被疑者の中にあっただろうと思うが、それでも老獪な刑事たちの罠にはまってしまったのだろうと思う。

「死刑の前」は、文字通り死刑判決を受けてその執行を待つまでの短い期間に書かれたものである。冒頭の目次には、五章からなると宣言されているが、実際に執筆されたのは第一章だけである。刑の執行が予想以上に早かったため、構想を実現できなかったのである。

その第一章で秋水が展開して見せたのは、自分自身の死生観である。この文章を書いているときの秋水は、死刑判決を受けてその執行を待つ身であるから、死は自分自身にとって差し迫った事柄であった。普通人間は、死を恐れるようにできており、ただでさえ死について考えることは恐ろしいのに、ましてその死が眼前に迫っているとあっては、恐れおののかずにはいられない、と思うのが普通の人の真情だろうが、秋水にとってはそうではない。彼は死刑を課せられて死んでゆくのであるが、この死刑を何でもないと受け止めているというのだ。その理由を秋水はぐだぐだとは述べない。一日本人として、国家から死刑を課せられたからには、潔く死んでゆこう、じたばたするのは見苦しい、そういう秋水の気概が伝わってくる。

死刑を軽く受け流す秋水の姿勢には、死そのものについての、秋水なりの考え方があったようだ。秋水によれば、人間というものは、生まれた時から死ぬように定められている。要は何時その死を死ぬかであって、死を回避することは誰にもできない。それでも人間が死を甚だしく恐怖するのはなぜか。それは死自体ではなく、死をめぐる様々な事柄が、心を痛めるからである。死その物自体は何ら恐ろしいものではない。大体人間というものは、死を体験することができない。何故なら死んでしまった時にはもはや生きてはいないわけだし、生きているうちはまだ死んではいないからだ。

こうした秋水の死生観には、師である兆民の死生観が影響しているのだろうと思う。兆民もまた死を恐れることはなはだ軽かった。人間は生まれた時から死ぬようにできているといったのも兆民だ。だから生きている間に、自分自身が納得できる生き方をしろというのが兆民の教えだった。秋水はその教えを肝心なところで守っているように見える。

この章の最後で秋水は次のように言う。「わたくしは、かならずしもしいて死を急ぐ者ではない。生きられるだけは生きて、内には生をたのしみ、生を味わい、外には世益を図るのが当然だと思う。さりとてまた、いやしくも生をむさぼろうとする心もない。病死と横死と刑死とを問わず、死すべきのときがひとたびきたなら、十分の安心と満足とをもって、これにつきたいと思う」(中公版日本の名著、伊藤整監修の現代語訳)。これは、日本的諦念とは如何なるものか、それをよく教えてくれる言葉である。






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