膨大な数の犠牲者を出したラス・ヴェガスの銃乱射事件が、アメリカにおける銃規制のあり方についての議論を活発化させたが、どうやら今回も尻切れトンボの幕切れとなって、銃規制が本格的に進む見込みはないようだ。何しろ今回の事件は、今年に入って以来複数の死者を出したマス・シューティングとしては273番目の事件だというのに、ということは毎日のようにアメリカのどこかで銃乱射事件が起きていると言うのに、それを規制しようという議論が一向に本格化しないのは、我々日本人の目には異様に見える。
ところが当のアメリカ人の大多数にとっては、銃を持つ権利は、命の次に大事なことらしいのだ。ごく普通のアメリア人に、銃を規制することの是非を問うと、圧倒的多数の人々が、とくに白人の場合にはほぼ全員に近い割合の人々が、銃を持つ権利は手放せないと答える。その理由はいたって簡単だ。自分や家族の権利を守るためには、銃は絶対に不可欠だというものだ。
これも我々日本人にとっては奇異な理屈に聞こえる。自分や家族の命は基本的に国が守ってくれるし、銃を乱用するものは国が取り締まってくれる。みんなが銃を持つことによる危険性のほうが、銃を持たないことのよる危険性より高いのだから、銃保有を規制するのは当然のことだ、そう我々日本人は思っているだろうし、世界中のいわゆる先進国の国民も同じように思っているはずだ。
ところがアメリカ人だけはそう思っていない。というのは、アメリカ人は国家権力を基本的に信用していないからだ。自分の命は国家に守ってもらうのではなく、自分で守る。国家は絶対に自分の命を守ってくれないし、また自分も国家にそう期待したりしない。だいたい国家と言うものは必要悪であって、その規模は小さければ小さいほど良い。だいたいのアメリカ人がそう考えている。そういう国では、国民の自己防衛権を軽視するような政治は受け入れられないのである。
全米ライフル協会が、いまでも大きな政治力を誇っているのは、そうした平均的なアメリカ人の圧倒的な支持があるからだ。彼らのスローガン「スタンド・アンド・ファイト」は、自分を攻撃する者に向かって自分自ら立ち向かえと言っている。警察をあてにしても無駄だと言っているのであるが、そういう考え方はアメリカ人のなかに浸透している。アメリカの警察というのは、自警団から発展した歴史に見られるように、自治体の最低限の治安維持が目的であって、個々の犯罪事件をとりしまることにはそう熱心ではない。ましてや、凶悪な犯罪から善良な市民を守るようにはできていないし、市民もそのことを警察官に対してあまり期待しない。
そんな政治的伝統のなかで、銃規制だけ強化しようとしても、大きな反発をうけるだけだ。だから今回の事件についても、結局は、犯罪者は憎むべきで、犠牲者には深い哀悼の意を示したい、ということで終わってしまう可能性が高い。
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