マイナー文学:ドルーズ&ガタリのカフカ論

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ジル・ドルーズとフェリックス・ガタリの共著「カフカ」は、次のような文章から始まっている。「カフカの作品は一本の根茎であり、ひとつの巣穴」である(「カフカ」宇波彰、岩田行一訳)。

一本の根茎が何をイメージしており、ひとつの巣穴が何のメタファーなのか、彼らは明らかにしない。ただこうしたタームを振り回しながら、カフカという作家の文学的実体にせまろうとしているようである。彼らの用いるタームとしては、このほかにも、非オイディプス化だとか、セリーだとか、鎖列だとか、表現機械だとか、奇異な言葉が沢山出てくる。彼らの文章に初めて接する人は、面食らうに違いない。これらの言葉を無規定のまま使うことで、一体何が言いたいのかと。

これらの言葉は、ドルーズとガタリが自分らの思想をあらわすために用いるキーワードなのである。彼らは、「アンチ・オイディプス」をはじめとした様々な著作の中で、これらのキーワードを駆使しながら、彼ら特有の思想を展開している。その営みの成果である彼らなりの概念装置を、このカフカ論の中でも利用しているわけだ。だから、この本の中でこれらの概念が無規定のまま用いられているといって、あまり不平を言わないほうがいいのかもしれない。これらの概念を厳密に知りたかったら、読者は彼らのほかの著作、たとえば「アンチ・オイディプス」を読むべきなのかもしれない。

ともあれこの本は、カフカという作家について、テクストを通して内在的に分析しようとする試みというよりは、カフカという作家をつまみにして、自分らの日頃の思想を展開しようとするものと受け止めたほうがよい。だから、カフカという作家について些かでも知りたいと思っている人は、この本を読んでがっかりするだろう。この本を読んだからといって、カフカという作家についてのイメージが多少でも明瞭になることはない。読者がもしこの本から得るところがあるとしたら、それはカフカについての知見ではなく、ドルーズとガタリという批評家たちが、何を考えているか、についてのささやかな手がかり程度のことだろう。何故ならこの本は、カフカ論として中途半端であるばかりでなく、彼らの思想の開陳としても、十分だとは言えないからだ。

色々出てくるキーワードの中で、もし多少でも使い勝手のよいものがあるとしたら、それは「マイナー文学」という言葉だろう。もっともこの言葉だけで、カフカの世界がざっくりと腑分けできるというものではない。しかし、カフカ評価の一つの切り口になる可能性はある。それはこの言葉を用いる人の、この言葉の使い方次第だ。

ドルーズらによれば、「マイナーの文学はマイナーの言語による文学ではなく、少数民族が広く使われている言語を用いて創造する文学である」。カフカのケースに当てはめてみれば、チェコのユダヤ人であるカフカが、広く使われている言語であるドイツ語を用いて創造する点でマイナー文学だということになる。チェコのユダヤ人がチェック語を用いて創造しても、それはマイナー文学と言えるかもしれないが、やはり文学的なインパクトからいうと、ドイツ語のほうが大きい。

マイナー文学の正反対はメジャーな文学つまり大文学ということになる。ドイツ人のゲーテがドイツ語で創造した文学がその典型だ。メジャーな文学にあっては、民族と言語とが一致しているので、個人と言語、個人と社会、個人と国家とはある意味幸福な関係にある。ところがマイナーな文学にあっては、こうした幸福な関係は成り立たない。個人と言語とは内面的なつながりを持たないし、個人と社会とはよそよそしい関係になりがちだし、個人と国家とは政治的に対立関係に陥ることがままある。その結果マイナー文学には、三つの特徴が生じる、と彼らは言う。「言語の非領域化、直接に政治的なものへの個人の統合、言表行為の集団的鎖列」がそれである。彼ら一流の言葉遣いがされているから、ちょっとわかりにくいが、ある言語圏においての少数民族派が、民族としてのアイデンティティをもとに集団をなし、それがその言語圏全体との間に政治的な対立関係に入る、ということをイメージしているようだ。

以上の関係をカフカにあてはめると、メジャーな言語としてのドイツ語とマイナーな民族としてのカフカとの関係ということになる。カフカはドイツ語との間では、内在的な関係を、つまりゲーテがドイツ語との間にもったような親密な関係をもてない。そのためカフカにおいては、ドイツ語は非領域化される。非領域化というのは、ドルーズら特有の言葉遣いであって、要するに相対化と無力化を重ねあわせたような意味を持つ。

また、カフカはドイツ語圏に住むマイナーなユダヤ人として、強烈に政治的な立場に立たざるをえないし(常にユダヤ人であることを思い知らされ、それについて政治的な態度をとらざるをえない)、またそうしたユダヤ人としての姿勢を同胞のユダヤ人たちと共有するように動機付けられる。差別される側は、個人としてではなく、それが所属するものを通じて差別されるわけであるから、どうしても所属集団への帰属を意識せざるをえないわけだ。

メジャーな文学とマイナーな文学との差異がもっとも強く現われるのは隠喩の用い方だと彼らは言う。隠喩というのは、詩的言語の中枢となるもので、すぐれた詩はすぐれた隠喩からなるといってもよい。ところがこの隠喩というのは、言語の民族性に深く根ざしている。民族の世界把握の仕方、それが隠喩に現われるといっても過言ではない。であるとすれば、民族と言語との分裂の隙間に成り立つマイナー文学にとって、隠喩はメジャー文学におけるそれとは違った意味を持つ。メジャーな文学にあっては、隠喩は詩的表現を成り立たせるものだ。だがマイナーな文学にあってはそうではない。マイナーな文学は、隠喩を通じて言葉との一体感を確認することが出来ない。そらぞらしい比喩を用いるよりもストレートな表現をしたほうがましだ、そうマイナー文学は受け止める。カフカについても同様だ。

「カフカはあらゆる指示作用とともに、あらゆる隠喩、あらゆる象徴作用、あらゆる意味作用を故意に抹殺する。変形(metamorphose)は隠喩(metaphor)の反対である」、とドルーズらは言って、カフカが何故動物を自分の作品世界に頻繁に登場させたか、その理由に言及する。「動物は人間<のように>語りはしないで、言語から意味作用のない調性を抽出する。語それ自体は、動物の<ような>ものではなく、自らよじ登り、吠え、うじゃうじゃしている」。動物は隠喩と無縁だというわけだ。だからこそ隠喩を信じないカフカにとっては、自分の小説世界の登場人物としてふさわしいわけである。

マイナー文学は、言語と民族との不一致からうまれるものだが、この不一致は、別の回路からももたらされうる。メジャーな言語空間に住んでいても、そこから故意に逸脱することで、自分を言語におけるマイナーな存在とすることは可能だ。もしそれができれば、どのような人でも、想像力さえあれば、マイナーな文学を創造することが出来る。そうした文学は既成の体系としての文学に風穴を開け、文学を更新して、あらたな文学世界を作り出すこともできるだろう。実際世界の文学史には、そうした内なる異邦人は少なからず存在したのである、というのがドルーズらの主張のようである。

こうして見ると、カフカを論じたこの本は、異邦人としてのカフカを通じて、文学における異邦人の意義について考察し、それを推奨することを目的にしたものと考えることもできよう。






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