良心の呼び声:ハイデガー「存在と時間」

| コメント(0)
「存在と時間」の第二編は現存在の時間性(有限性)をテーマにしているということで、いきなり「死」の話から始まったあと、「良心」についての話に変る。良心は、とりあえず時間とは関係がないと思うし、良心に続く章では、現存在の時間性の分析という具合に、再び時間のテーマにもどる。こういうわけでハイデガーが何故、この部分で良心の問題をさしはさんだのか、その意図がちょっと気になる所だ。しかも、この良心の部分は、第一篇で出てきた「不安」の問題とほとんど重なるような議論をしている。わざわざそれを蒸し返してまで、なぜここで良心を論じるのか。もしかしたらハイデガーは、現存在の本質が時間性にあることを踏まえ、その時間性を本格的に論じるべき第二編で、その核心を概念として「良心」を取り上げたつもりなのかもしれない。「不安」の部分では、現存在の時間構造が明らかになっていなかったが、したがって「不安」の内実も厳密には規定できなかったが、時間性を視野に入れたこの章で、時間的な存在である現存在にとって、「不安」としてかつて現われた現象を、「良心」という形で、更に厳密に規定したい、ということなのかもしれない。

不安は、現存在の情態性、それももっとも根本的な情態性だとされた。情態性というのは、現存在に根本的に備わっている気分のようなもので、現存在である人間が、自分を世界・内・存在として実感できる前提となるものだ。そして、その究極的な働きは、現存在を非本来的なあり方から本来的なありかたに連れ戻すことにあるとされた。現存在としての人間は、本質的に日常性のなかに没落する傾向をもつものなのだが、したがって非本来的な情態に陥りやすいものなのだが、その時に、現存在をその本来的なあり方に連れ戻そうとする動きが働く。それが不安となってあらわれる。だから不安とは、現存在が現存在自身について感じる、もっとも原初的な気分ということになる。

これに対して良心は、呼び声という形であらわれる。呼び声は語りの一首だとハイデガーは言う。語りには、語りかけられるものと、語られる内容とがある。語りかけられるものは現存在自身であるが、語られる内容はとりあえずはっきりしない。そこは不安と似ている。不安も、恐れとは違って、不安がる対象が明らかでないと言う特徴があった。それと同じように、呼び声も、それが語りの一首であるとされるにかかわらず、語られるべき明白な内容を伴わない。では、良心が呼びかけるのは、どんなことなのか。

良心の呼び声が現存在に語りかけることについての、ハイデガーの説明はいまひとつ釈然としないのだが、要するに現存在を、いまある非本来的なあり方から本来的なあり方へと連れ戻そうとする、そうした呼びかけではないのか、というのがハイデガーの言いたいことらしい。「呼び声は、噂話になるであろう何ごとをも『語ら』ないし、また出来事についてのなんらの知識をも与えていないというのです。呼び声は、現存在をその存在可能へと予め指示し、しかもそれは気味悪さからの呼び声として指示するのです」。ここでいう「存在可能」とは、現存在の本来のあり方を示す言葉であって、現存在というのは、自分自身の行う投企によって、自分の運命を切り開いてゆくような、そうした自由な存在なのだということを意味している。これに反して非本来的なあり方は、日常性の中に埋没し、「ひと」として生きることで、自分の自由な生き方を放棄している事態を意味している。

ともあれ、「呼びかけを正しく聞くことは、こうなるとその最も自己的な存在可能のなかで自己を了解することと同じです。すなわち最も自己的な本来的に責めあるようになることができることを自己投企することと同じです」ということになる。このあとハイデガーは、良心の実存論的解釈と通俗的な解釈とを比較し、そこから「良心において証言されている本来的な存在可能の実存論的構造」を明らかにしてゆくのだが、その文脈で、良心と不安との関係についても触れている。

「呼び声の了解は、自分の現存在を、その単独化の気味悪さにおいて開示します。了解においてともに露わされた気味悪さは、了解に属している不安という情態性によって、間違いなく開示されます。良心の不安という事実は、現存在はその呼び声の了解において、自分自身のまえに立たせられているということの現象的な確証です。<良心を=もとうと=欲すること>は、不安の準備となります」

ここでは、良心をもとうと欲することが不安の準備とされているわけだが、そもそも不安とは、良心をもとうと欲する以前に、現存在にはじめから備わっていた根本的な情態性であったはずだ。だから、この議論はかなり混乱していると言わざるをえない。もしも良心にともなう現象が不安に先行するのであれば、不安を情態性の部分で論じたところで、触れておけばすむ問題だった。それを、第二編のこの章で改めて取り上げたからには、良心は不安よりも高度なレベルの現象なのだと証明する必要があるのではないか。でなければ読者には、なぜここで良心があらためて問題になるのか、そのわけがわからない。

こういうわけで、不安と良心の関係についてのハイデガーの説明はかなり混乱している。というか堂々めぐりのような観を呈している。筆者としては、ハイデガーが良心を、現存在の時間性と関連付けて論じていれば、もっとわかりやすい構図が得られたのではないかと考えている。良心を、現存在の本来的なあり方への連れ戻しの働きだとした上で、その現存在の本来的なあり方は時間性によって規定されていると説明し、それにもとづいて、現存在の時間性が問題になっている第二編のこの章で、良心の問題を主題的にとりあげたのだ、というようなニュアンスのメッセージを、ハイデガーは発するべきだったのではないか、そんなふうに思うわけである。






コメントする

アーカイブ