現存在の時間性:ハイデガー「存在と時間」

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もしも人間が不死の存在であったなら、時間という観念を持たなかったであろう。かりに既に五万年生きてきた人があったとして、その人にとって一万年前の出来事と千年前の出来事とにどんな有意義な違いがあるだろうか。どちらもその人にとっては、はるか昔のことなのだし、いまさらそれらの違いについてあれこれと考えるのは意味のないことだろう。未来についても、百年先と千年先とがその人にとって有意義な違いがあるとは思えない。どちらもこれから生きてゆく無限の時間のなかでの些細な相違にすぎないのだ。時間は、人間の存在が有限であることに基づいている。時間が有限であるからこそ、人間は自分に限られた時間を有意義に使おうと努力するようになるのであるし、そこから時間を大事にしようとする姿勢が生まれてくる。時間の観念は、人間の存在の有限性に根ざしている。こう捉えるのが、ハイデガーの時間論の根本的な特徴である。

ハイデガーは言う、「根源的な時間は、有限です」と。有限であるとは、始まりがあり、終わりがあるということだ。人間は人間として生まれてくることで、世界・内・存在としての存在が始まり、死ぬことによってその存在が終わる。この二つの出来事にはさまれた限られた期間が時間として観念されるのである。時間の観念は、死への存在としての現存在の、根本的なあり方に基づいているわけである。

通俗的な時間の捉え方においては、時間は無限のものとして観念される。その無限の時間の中で、いま現に生きている瞬間が現在として捉えられ、それを起点にして、すでに過ぎ去った時間が過去、いまだこない時間が未来として観念される。この三者は、無限で連続した時間軸のうえで、ほぼ対等な意義を持たされている。時間の無限性を前にしては、この三つに有意義な差異を認めることは出来ないからだ。

ところが、時間が有限だと考えれば、まるで違った様相が現われる。死すべき存在としての現存在にとって、時間は過去から現在を経て未来へとつながる直線的でかつ永遠の流れなどではない。時間には始まりがあり終わりがある。かつその間に挟まれた時間は、いわば凸凹としながら流れてゆく。時間はまた、それを有意義に生きるためのものだ。有意義に生きるとはハイデガーにとって、現存在としての人間が自分の存在可能性を十全に発揮することである。その存在可能性は、究極的には人間の全体としての可能性を現わすから、それは死を存在の終わりとして、そこから遡ることでもたらされる。だから、時間においては、将来が決定的な意義を持っている。何故なら、現存在の終わりとしての死ぬことは、将来の出来事だからだ。死ぬことより重大なことは現存在には存在しない。その将来の出来事としての死から遡ることで、自分の存在可能性の全体が現実態として総括されるわけである。これは人間が有限な存在であることに基づいている。人間が有限であるからこそ、彼にとっての時間も有限なのである。

死を意識しないまでも、人間が自己の存在可能性にかけるときには、つねに将来に向かって自分を投企するという構造をとる。いづれにしても人間にとって、将来(未来ではない)こそが決定的な意義を持つのである。これに対して過去は、通俗的時間概念においては、単に過ぎ去った時間というふうに観念されるが、本来的な時間概念においては既在として観念される。既在とは、過ぎ去って消えてしまった時間ではなく、かつて経験されたものとして保存されているものである。だからいつでも現存在としての人間の前によみがえることができる。人間はこの既在を足がかりにして将来に向けて自己を投企するという構造になっているのである。そうした将来と既在とが、現在において統合される。

以上の構造を言い換えれば、次のようになる。人間は既在として「既に在った」という事実性を生きているが、現在の状態においては、本来的なあり方から逸脱して非本来的なあり方に転落している可能性がある。そこから脱して本来的な状態に戻るには、将来に向かって自己を投企しなければならない。自己投企することで本来的な自己をもりもどすわけである。そのプロセスにおいては、将来を起点として既在と現在とが統合されねばならない。そのプロセスにおける時間性には、時間のなかでものごとが成就するということが含まれている。それをハイデガーは時熟と呼んでいる。時間は、カントのいうような、人間にとっての生きるための枠組みなどではなく、人間の生き方が成熟するそのプロセスそのものを言うのである。そのプロセスを発動させるのは、現存在としての本来的な生き方に常にもどろうとする関心である。関心とは現存在の根本的な存在構えのことであった。

ともあれ、時塾という言葉を使うことでハイデガーは、時間というものが、人間の存在とは一応無縁な、いわば客観的に存在する実在のようなものだとする伝統的な捉え方に挑戦しているわけである。カントは、時間を人間の側のアプリオリだとした点で、こういった捉え方に風穴をあける働きをしたが、人間の認識を外側から枠付けするものだとした点では、それを客観的な実在と見る立場から幾許も離れていなかった。ハイデガーは、そうした捉え方を根本から覆して、時間を現存在としての人間の本来的な生き方へ向かって自己投企するプロセスそのものだ、すなわち人間の生き方と不可分な構造を呈しているのだと主張したわけである。その人間が有限な存在であるからこそ、人間はたえず本来的な生き方を目指す関心に促されているわけであるし、そこから時間への配慮も生まれてくるのだと考えるわけだ。

以上の、時間についてのハイデガーの議論は、次のように要約される。「(1)時間は、根源的には時間性の時熟であって、そのようなものとして時間性が、関心構造の構成を可能にしています。(2)時間性は、本質的に脱自的です。(3)時間性は、根源的に将来から時熟します。(4)根源的な時間性は、有限です」。ここで、脱自的といっているのは、時間が呈する既在、現在、将来という差別は、全体としての時間性がこれらに見かけ上別れていることを言っているのであって、時間が既在、現在、将来から構成されるのではなく、全体としての時間がこれらに脱自的に分節されるのだということを意味している。

時間が有限だということは、時間を無限だとする見方と両立しない。ハイデガーにとって、時間を無限とする見方は非本来的な見方なのである。ハイデガーは言う、「根源的な時間が有限的であるからこそ、『派生的』時間が、非=有限的時間として時熟できるのです」。わかりにくい言い方だが、人間が有限な存在であるからこそ、人間は自分が無限な存在だと思いたい、それが無理ならばせめて、自分が永遠とつながっていると思いたい。そういう思いが、時間を無限なものとみる見方を生み出した、そうハイデガーは言っているようなのである。

以上、時間をめぐるハイデガーの議論は、人間を死への存在、つまり死に向かう有限な存在としてとらえるハイデガーの根本姿勢と不可分の関係にある。ということは、ハイデガーの議論は、あくまでも人間を世界解釈の梃子のようなものとして位置づけているわけである。ハイデガーは後に、自分はヒューマニストではない、といって、自分を実存主義者の一員に加えようとする動きに反発したが、その理由は、自分は人間の実存を問題にしているのではなく、あくまでも存在一般を問題にしているのだと言った。しかし、「存在と時間」におけるハイデガーの議論を読むと、人間をすべての出発点としている点で、人間中心主義だとの印象を与えているのは否めない。






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