ブランショのカフカ論

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フランツ・カフカという作家は、世界の文学史の常識を覆すような作品を書いたわけだし、また人間としてもユニークな生き方をしたので、非常に影のある存在だと受け取られている。そんなこともあって、カフカを論じる視点は多様でありうる。といっても、星ほど多くのカフカ論というものがあるわけではない。偉大な作家と呼ばれるにしては、彼を論じたものは、意外と少ないのだ。しかも、その視点はかなり限られている。カフカのテクストに沿って、作品を内在的に解釈しようとするものか、あるいはカフカの生き方に焦点を当てて、カフカの小説の独特さは、彼の生き方の独特さを反映しているとするものか、そのどちらかと言ってよい。

モーリス・ブランショの「カフカ論」は、後者の代表的なものだ。彼も、カフカの生き方に焦点をあてて、カフカの作品はカフカの生き方を反映したものだとする。つまりカフカの作品と、カフカの生き方はセットで論じられるわけだ。

ブランショはまず、カフカがなぜ小説を書くようになったか、その理由からしてカフカの生き方の反映だとしている。ブランショによれば、カフカにとって生きるとは書くことなのだ。書くことで自分が生きている実感を得る。書かないでは自分が生きているあかしが得られない。カフカにとって生きることは、書くことと百パーセント重なっていたというのである。そのことから、カフカの女性関係にまつわる疑念が解消する。カフカは、一人前の人間として、女性と結婚して自分自身の家庭を持つことも考えたが、結婚することで、それに時間と生き方を束縛され、書く余裕を失うのが怖かった。彼が、何度も女性と婚約しながら、そのたびにそれを破棄し続けたのは、結婚生活によって書く自由を損なわれるのが怖かったから、とブランショは言うのである。

しかし、それだけでは、カフカの小説の、あの独特な世界の特徴は説明できない。カフカのあの独特な小説の世界が、これもまたカフカの生き方の独自性を反映しているとすれば、カフカの生き方のどこが独特だったのか、それを明らかにしなければならない。

ブランショは言う、「カフカは、最高のものが、もっとも高い意味での文章表現(エクリチュール)たる一冊の書物のうちに表わされるような伝統に属して」いる、と。そのようなエクリチュールこそが、芸術の名にもっとも値する。そして、芸術とはカフカにとって不幸の意識なのだという。「芸術は、この『不幸の意識』である。自分自身を失った人間、もはや『私』と言い得ぬ人間、そして、このように動いてゆくうちに、この世も、この世の真理も見失い、追放の運命にしたがう人間、ヘルダーリンの言う、神々がもはや存在せず未だ存在せぬ窮乏の時に属している人間、そういう人間が置かれた状況を、芸術は描くのである」(粟津則雄訳、以下同じ)

ブランショによればカフカの小説の世界は、すべてこの「不幸の意識」を描いている。カフカの小説の主人公たちはみな、自分自身を失い、この世から追放された人間として描かれている。城の主人公たる測量士はその典型で、彼は「最初から、自分の仲間も、生まれ故郷も、妻や子どもたちのいる生活も、断念してしまった人間として、描かれている。だから、彼は、最初から、救いの外におり、追放の身となっているのだ。この追放の地において、彼は、ただ単に我が家におらぬのみならず、自分自身の外に、外部そのものの中にいる」という逆説的な状況に置かれているわけである。

こうした「不幸の意識」は、どこからカフカに忍び寄ってきて、どのようにカフカを捉えてしまったのであろうか。このことについての手がかりをブランショは、カフカの生い立ちや生き方に求めている。彼が考察の材料とするのは、カフカの日記や書簡の類だ。作品そのものは、カフカの生き方が反映した、いわば生き方の産物のようなものだから、その産物から、生き方をそもそも制約した、生き方の淵源といえるものを探し出すのは困難だからである。

ブランショは、カフカの生き方を制約した要因として、四つのものを挙げている。父親との関係、文学との関係、女性の世界との関係、およびこの三つが根ざしている霊的な世界との関係だ。こう言われると、言われたほうは、拍子抜けのような気分になる。カフカが父親との間でコミュニケーションの不全に悩んでいたことはよく知られているし、文学がカフカにとって生きることそのものだったということも、ほかならぬブランショが指摘するところだし、カフカが女性に対して憧れと反発という相反した感情をもっていたこともわかっている。そんなことをいまさら持ち出してきても、カフカがなぜ自分をこの世から追放され、疎外された存在と感じるようになったか、そのいわれを説明したということにはならない。

そこで、第四の要素である霊的な世界との関係が問題となるが、この点についてのブランショの言及はごくあっさりしたもので、ほとんど要領を得ない(たとえば、その霊的な世界につながるシオニズムが、カフカにおいては反シオニズムと同居していたといった具合に)。

こんなわけでブランショのカフカ論は、カフカの作品をカフカの生き方の反映だとし、その生き方は、この世から追放されてあるような、孤独なものであったとするのであるが、何故カフカがそのような孤独に陥ったのか、またその孤独を受け入れて、場合によってはその孤独を愛したのか、それらについての十分な説明は、「カフカ論」と題するこの本の、どの行からも伝わってこないのである。






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