ワイルドバンチ(The wild bunch):サム・ペキンパー

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サム・ペキンパーは、最後の西部劇の大家である。60年代にはテレビの西部劇ドラマで人気を博した。「ガンスモーク」とか「ライフルマン」といった番組は日本にも輸入され、筆者も熱心なファンの一人だったものだ。彼の作風は、なんといっても暴力を荒々しく描くことだ。世の中(とくに開拓時代のアメリカ西部)には、いわゆる正義などといったものは存在しない。存在するのは力だけだ。その力のぶつかりあいが人間社会の本質なのであって、力の強いものが、正義を僭称する。そういうニヒリスティックな視点が、彼のあらゆる作品を貫いているといってよい。

そんなペキンパーが1969年につくった「ワイルドバンチ」は、西部劇の最後の大作と呼ばれる作品だ。最後の大作に相応しく、西部劇の醍醐味が凝縮されている。ここでもやはり、力、それは暴力と言う形をとるが、その暴力を肯定する視点が作品の全体を支配している。正義は無論、法の尊重といったメンタリティもない。ひたすら暴力と暴力のぶつかり合いを描いている。そのぶつかり合いの中から最後に勝者として勝ち上がるものはない。みな暴力のぶつかり合いの中で、自分自身を粉砕して滅びてゆくのだ。それ故これは、究極の暴力映画といってよい。

「ワイルドバンチ」という言葉はならず者の集団を意味する普通名詞のようだ。この映画の中のならず者たちは、金のために命を捨てるのを惜しいことだとは思っていない。金のために暴力に訴えるのは、生きてゆくうえで必然のことで、そこに選択とか躊躇の余地はない。ひたすら暴力に訴えて、その結果成功すればラッキーだし、失敗すればくたばるだけの話だ。くたばることにそんな未練はない。人間誰でも一度はくたばるように出来ているのだ。そういうニヒリズムが登場人物たちのすべての意識を捉えている。

ウィリアム・ホールデン率いるならず者の集団が、強盗稼業で荒稼ぎしている。そのやり方がすさまじい。獲物に問答無用で襲い掛かり、そこにいあわせた人間たちを無差別に殺害し、金を奪うのだ。抵抗されることもあるから、仲間の中から死者も出る。だから累々たる死骸の山が築かれる。彼らはその死骸の山を乗り越えて生き残ったことを、偶然の僥倖として受け取った上で、次なる死骸の山を築くべく生き続けるというわけだ。彼らのそうした生き方は、死ぬまで変らないだろう。実際映画の中の彼らは、最後には一人残らず死んでしまうというわけなのだ。

このならず者集団は、まず鉄道の駅を襲う。当時の鉄道の駅は、金融業もしていたらしい。莫大な金を扱っているのだ。ところが多大の犠牲を出してまで奪った金が、実はただの鉄くずだった。だが彼らはだまされたことを恨むわけではない。失敗したら、また別のビジネスに取り掛かり、それを成功させればよいのだ。そのビジネスというのが、アメリカ軍から武器を奪って、それをメキシコ政府軍の一部隊に横流しするというものだった。政府軍といっても、山賊のようなもので、市民を襲撃したり、仲間割れをして殺しあったりしている。その点ではならず者と変りはない。そのならず者のために、ウィリアム・ホールデン率いるならず者の集団が、一肌脱ごうというわけで、これは愛国心は無論、人間的なモラルを著しく逸脱した行為に映る。しかしペキンパーの眼にはそうは映らないらしい。彼にとっては、アメリカ軍というのは、ただインディアン殺しをこととするならず者集団に過ぎないのだ。それ故、そこから武器を盗んでメキシコのならず者に横流ししたからといって、悪びれる理由はない。力だけが正義なのであるから、正義は力で奪い取ったものの側にあり、奪われたほうはただ間抜けだっただけである。

こんな具合に、アメリカ軍から武器を奪ったならず者たちは、それをメキシコのならず者に渡すについて、一悶着を起こし、ついには殺しあうハメに陥る。ならず者たちは最終的に四人になる。その四人で百人以上のメキシコのならず者に立ち向かうのだ。その結果は相打ちで、四人とも殺されてしまうが、メキシコのならず者たちもほぼ全滅という憂き目に会うのである。映画のことであるから、多少の荒唐無稽さは許されるだろう。それにしても、四人で百人以上の敵を殺すというのは、いくらなんでもすさまじすぎる。だがそのすさまじさこそがこの映画の醍醐味なのだ。ペキンパーはそう割り切っているようである。

サブプロットとして、かつての仲間が鉄道会社に雇われ、ならず者たちを追う場面がある。このサブプロットはほとんど本筋にかかわりがないのだが、どうもペキンパーは、男の友情とか意地とかいったものを描いてみたくて、これを挿入したように見える。正義が存在しないところでは、男同士の友情とか意地が物を言う。その意地は、本筋のなかでも一定程度は強調されていたが、それを純粋な形で表現する為には、それに特化したサブプロットが必要だとペキンパーは判断したのだろう。







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