2017年11月アーカイブ

ハイデガーの小著「真理の本質について」は、1943年に論文の形で発表されたが、そのもとになったものは1930年の講義である。そんなこともあって、ここで展開されている真理論は、「存在と時間」における真理論の延長という性格が強い。「存在と時間」においてハイデガーは、真理を認識と実在との一致とする伝統的な考え方を批判したうえで、真理とは存在がそれ自身を隠れなくあらわにすることだと主張した。この基本的なスタンスは、「真理の本質について」においても変っていない。ハイデガーはここでも、真理は事象と言表との同調(一致)ではないとした上で、真理の本質とはなにかについて議論をしている。

万葉集巻九には、水江の浦島子の歌に続いて、同じく高橋虫麻呂の「河内の大橋を独り行く娘子を見る歌」が収められている。浦島子の歌が、民間の伝承に取材した作品だとすれば、これはたまたま見聞した自分の体験を踏まえた作品だ。日常の出来事をさりげなく描いているという点で、写真でいえばスナップショットのような作品である。

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「風の谷のナウシカ」は、宮崎駿の劇場用アニメ映画の第二作で、1984年に公開された。この公開に前後して、原作となる漫画が1982年以来雑誌に連載されているが、原作とアニメ映画にはいくらかの相違があるという。原作は10年以上にわたって連載されており、かなり遠大なストーリーになっているようだが、映画のほうはストーリーをコンパクトにまとめて、その分わかりやすく、またメッセージ性の強い作品になっている。

横綱日馬富士の貴の岩に対する暴力問題をめぐって、相撲協会周辺では大変な騒ぎになっている。その騒ぎぶりを見ていると、わからないことだらけで、なんとも釈然としない気持ちになるが、中でももっとも釈然としなかったのは、昨日開催された横塚審議委員会なるものの主張だ。

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俵屋宗達は、今日では琳派の開祖として知られている。しかし宗達自身にはそのような意識のありようがなかった。琳派というのは、元禄時代を中心に活躍した緒方光琳とその弟子たちにつけられた名称であり、徳川時代の中期には酒井芳一のような有力な後継者が出て、日本の絵画史上の一大流派となったわけだが、宗達は光琳よりずっと前の世代の画家であるからして、後代の流派の名で宗達を呼ぶのは、宗達自身にとって不本意だと思われる。せめて琳派の先駆者ぐらいの位置づけにしておくべきだろう。

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これもクリムトの遺作の一つである。完成度はかなり高い。あと一筆といったところだ。この肖像画のモデルとなったヨハンナ・シュトラウスと思われる女性の未完成の別の肖像画が残されているが、それを見るとクリムトの肖像画制作のプロセスがわかる。クリムトはまず、顔の部分をほぼ完成させ、その後に衣服や背景に映ってゆくのである。

大杉栄が自叙伝を書き始めたのは1921年の8月、関東大震災の混乱に乗じて甘粕に殺される2年前のことだ。その後、書き上げたものから順に、9月以降雑誌「改造」に発表した。少年時代の追憶に始まって、恋愛関係のもつれから神近市子に刺される1916年(31歳)までのことを書いている。新潟県の新発田における少年時代の思い出と陸軍幼年学校での生活及び女性遍歴が主な内容だ。大杉はアナキストだが、自分がどうしてアナキストになったのかという、思想形成の話はあまり出てこない。

小子から青春の歌を歌おうと誘われて新宿の歌声喫茶に繰り出したのは今年初春のことだったが、今度は四方山話の会の例会行事としてみんなで押しかけようという話になって、寒風の吹きすさぶ中を赴いた。ビルの一階のエレベータ前についてみると、甲谷子と浦子が先について待っていた。甲谷子とは昨年の春以来の再会だから、お互い久しぶりだねといって挨拶する。そのうち岩子も加わった。今回の出席者はこの四人に石子を加えた五人のはずだが、その石子がなかなか姿を見せない。浦子が携帯で電話すると「今出られません」といいうメッセージが返ってくる。岩子がかけてもやはり同じメッセージが帰ってくる。予定時刻を十分も過ぎたことだし、石子も追ってやってくるだろうから、上に上がっていようと話しているところに、福子がひょいと現れた。そこで福子を加えた五人で店に上った次第だ。

高橋虫麻呂は、官人としての立場で難波方面へ出張したことがあり、その時の現地での体験を踏まえていくつかの歌を残している。それらにも前回触れた東国への出張の場合と同じく、土地の伝承を踏まえたものがある。「水江の浦の島子を詠む」はその代表的なものである。

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「ルパン三世」は、漫画とテレビで大きな流行を起こした作品で、筆者も昔テレビでよく見たことがある。いまだに放映されているというから、その人気の息の長さがわかる。宮崎駿は、この作品のテレビ制作の初期に携わったほか、劇場用映画も手がけた。「ルパン三世カリオストロの城」がそれで、この作品は宮崎にとって最初の劇場用映画となった。

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金剛力士(仁王)像といえば、東大寺南大門のように、寺院の門の内部に安置されるものがイメージされるが、興福寺の場合には、西金堂の中に、本尊の脇時として安置されていた。それ故、サイズは人身大であるが、この両像は、南大門のそれに劣らぬ迫力を感じさせる。

「白痴」は、作家としての坂口安吾の名声を確立した作品だ。表だったテーマは、一人の男と白痴の女の奇妙な共同生活だが、彼らが直面する東京大空襲の阿鼻叫喚の地獄が、もう一つの大きなテーマになっている。今日的な視点からこの作品を評価するとすれば、東京大空襲をリアルに描いたことに価値があるのではないか。戦後活躍した作家のなかでは、東京大空襲を正面から取り上げたものはいない。歴史の専門家の中にさえ、東京大空襲は人気のないテーマだった。ひとりだけ、これは自分自身が被災者だった早乙女勝元の、地味な努力があるくらいだ。

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「花嫁(Die Braut)」と題したこの絵もクリムトの遺作の一つ。テーマは花嫁だが、アダムとイヴが聖書から伝わるイメージとかけ離れているように、この絵もまた花嫁のイメージとあまり結びつかない。花嫁のイメージを画面から読み取ろうとすれば、中央上部で顔を横に傾けた女性ということになろうが、それでも彼女から花嫁らしさが伝わってくるとはいえないようである。

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ハスチョローは、中国の映画監督だが、名前からして漢民族の出身ではない。モンゴル系らしい。その人が、中国人のもっとも中国人らしい生活ぶりを描いたのが「胡同の理髪師」だ。この映画は2006年に公開されたが、映画の舞台となったのは、2008年北京オリンピックを目前に控え、急速に再開発が進む北京の町だ。北京の町と言えば、胡同と呼ばれる中国風の長屋での暮らしが知られているが、この映画はその胡同を舞台にしている。

論文「根拠の本質について」は、「形而上学とは何か」と同時に成立した、とハイデガーはこの論文の第三版への序言の中で書いている。「形而上学・・・」は無を熟思しているのに対して、この論文はオントロギッシュな差別をあげているというのだ。無とは「有るものでは無い」ということであり、オントロギッシュな差別とは「有るものと有との間にある無いということ」だとハイデガーは言うのだが、なぜ根拠がそうした差別と係わりがあるのか、この論文を最後まで読んでも、いまひとつしっくりしない。何となく伝わって来るのは、根拠が現存在としての人間の自由な意思に基づく選択(投企といわれる)に根差しているとハイデガーが主張しているらしいことだ。

万葉集巻九には、伝説や民俗に取材した長歌が多く収められている。なかでも高橋虫麻呂のものが、数も多く内容も優れている。この巻は、雑歌、相聞、挽歌の三部建てになっているのだが、そのいずれも虫麻呂の長歌を収めている。虫麻呂が伝説に取材した歌としては、葛飾の真間の手児奈の不幸な死を詠んだ歌が有名だが、それについては別稿で解説したところなので、ここではそれ以外のものをいくつか紹介しよう。

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張芸謀の1999年公開の映画「あの子を探して(一個都不能少)」は、現代中国の農村部での学校教育の現状をテーマにしたものだ。時代設定は明示されていないが、同時代の中国と考えてよい。1999年の中国と言えば、わずか20年にもならない最近のことだが、ここ数年間の中国の爆発的な経済成長からすれば、かなりな過去のように見える。この間都市部は発展の恩恵を受けつつあったようだが、農村部は半世紀前と変わらない状況だったのではないか。この映画を見ると、はるか昔の貧しい時代の中国を見せられているような気になる。

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興福寺の東金堂にあった梵天・帝釈天像のうち、帝釈天像は建仁元年(1201)に定慶によって作られ(現在は根津美術館蔵)、梵天像は翌建仁二年(1202)に作られた。梵天像の背面の墨書に、大仏師定慶、小仏師盛賀及び定賀によって作られたとの記録がある。

今年(2017年)の四月に、不倫行為(間夫)をした妻に怒りを覚えた夫が、妻に殴る蹴るの暴行を加えたあげくに死亡させた事件について、大阪地裁が執行猶予付きの有罪判決を言い渡した。有罪判決に執行猶予がつくのは、情状酌量の余地があることの現れであるが、大阪地裁としては、この夫が妻の不倫に激高したことには、それ相応の理由があるといえるし、その点については同情できる、すなわち間夫をされた怒りは理解できる、したがって執行猶予に値する、と判断したようだ。

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クリムトは55歳の若さで死に、多くの未完成作を残した。「アダムとイヴ(Adam und Eva)」と題するこの作品もその一つである。テーマは聖書にあるアダムとイヴの物語らしいが、絵からはそのようなイメージは伝わってこない。イヴはクリムトの作品に出てくる他の女たちとほとんどかわらないし、アダムのほうはあまり存在感を感じさせない。

佐藤忠男は本職が映画評論家だから、映画を通じて長谷川伸に親しんだのだろう。長谷川伸と言えば、戦前から戦後にかけて、(戦中と戦後の一時期権力によって抑圧されたことはあったが)日本の映画界では人気のある作家だった。当時の映画界では、股旅ものとか仇討ものが最も大きな人気をとったが、長谷川伸はその分野を代表する作家だった。

万葉集巻九秋の相聞の部には、一人の尼を中心にして、面白い歌のやりとりが収められている。発端は、この尼に或る者が歌を二首贈り、相聞の気持を表わした。それに対して尼のほうでは、礼儀作法に従って歌を返そうとしたが、自分で一首の歌を完成させることができず、上の句だけを作って、下の句を大伴家持につけてくれるようにねだった。そこで家持が下の句をつけてやったはいいが、これがなんとも意味をはかりかねるしろものだというので、古来万葉学者たちを悩ませてきた。だが、二人で一首を作ったというのが、連歌の始まりだとして、歴史的な意義が大きいとされるものだ。

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張芸謀の1995年の映画「上海ルージュ(揺啊揺, 揺到外婆橋)」は、中国のやくざ社会を子どもの視点から描いたものだ。映画の中では、時代区分は明示されていないが、原作小説(門規)では1930年代と設定されている。その時代なら、中国でもやくざ社会がまだ活発に動いていたのだと思う。まして舞台となった上海は、中国のやくざたちが大規模な闇社会を形成していたのだろう。

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定慶は、運慶や快慶と同世代の仏師で、作風からみて慶派に属すると見られる。しかし、その作品が収められたのが興福寺と春日大社に限られ、また僧綱位についた形跡がないことから、慶派の主流ではなかった可能性が高い。その作風は、慶派の特徴である写実を基本としながらも、細部へのこだわりや装飾性等など、彼独自のものを指摘できる。

坂口安吾は、敗戦直後に発表した「堕落論」の中で、同時代の日本人に懐疑的な目を向けたが、彼のそういう傾向は、敗戦後にわかに表面化したというより、敗戦以前から伏在していたものが、敗戦を契機にして顕在化したということのようである。彼の日本への懐疑的な見方を感じさせる文章は、敗戦前にも書かれている。昭和17年の2月に発表した「日本文化私観」がそれだ。

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クリムトは「水蛇」などの作品で女性の同性愛らしきものを描いたが、「女友達(Die Freundinnen)」と題した晩年のこの作品もその延長上のものだろう。タイトルは「女友達」だが、一見してレズビアンのカップルとわかる。

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張芸謀の1994年の映画「活きる(活着)」は、中国現代史を庶民の目線から描いた作品だ。1940年代から70年代ころまでの、中国の民衆の生活を描いている。この時代は、対日戦争に始まり、国共内戦と共産党の勝利、60年代の文化大革命がそれぞれ歴史上の節目になっている。このうち対日戦争は全く触れられず、国共内戦も微視的に描かれ、文化大革命は否定的に描かれている。といっても、共産党政治への強い批判は見られない。50年代の大躍進時代は、共産党の政策のおかげで庶民が明日に希望を持てるようになったと主人公たちに言わせているし、文化大革命は、共産党の蛮行というより、避けがたい災厄のように描かれている。

「形而上学とは何か」は、「存在と時間」を刊行した二年後、1929年に行われた講義を、後に文集「道程」に収録したものである。筆者が読んだのは、創文社版ハイデガー全集第九巻収集のものだが、この全集版の日本語訳は、木田元が言うように問題があるようだ。特に訳語が独特で、「存在」を「有」とし、「存在者」を「有るもの」とし、現存在を「現有」としているなど、他の日本語訳と比べて、これだけがかなり変った訳し方をしている。現在一般的に言われている「形而上学とは何か」という題名でさえ、「形而上学とは何であるか」という具合に、大袈裟な感じを与える。

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三日目(十一月十日)は諫早湾の干拓事業の象徴である水門を見物した後、長崎の街を散策しようということになった。ホテルのラウンジで朝食をすませ、九時頃ロビーに集合する。ところが横ちゃんあひるがなかなか現れない。今ちゃんあひるが言うには、横ちゃんあひるのトイレはいつも長いのだそうだ。トイレといえば、小生は旅行中便秘がちになるのだが、今朝は三日ぶりに出たのでほっとしている。だけど一日分しか出なかったようなので、まだ二日分残っている感じがする、と言ったところ、誰かが、自分は未だに出ていませんと、うらやましそうに言った。

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張芸謀は、中国映画第五世代の旗手として、中国映画を世界的なレベルに引き上げた功労者と言われる。「紅夢(原題"大紅灯篭高高掛")」は、1991年に公開され、彼の初期の代表作である。とはいっても、伝統的な意味の映画とはだいぶ異なっている。普通の映画らしい映画ではない。中国風バレエをスクリーン向けに編集しなおしたようなものだ。見ていても、バレエの舞台をそのままカメラに収めたといった体裁だ。バレエだから、音楽と踊りだけで、台詞はない。台詞がないから、物語性が希薄だ。観客は中国風にアレンジされたバレエ音楽に乗って繰り出される踊りの演技を披露されるわけである。

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ハウステンボスへは午後四時過ぎに着いた。駐車場の入り口がわかりにくくて難儀したが、なんとか探し当てて車を止め、エントランスをくぐった。その先には水車が見え、いかにもオランダらしい光景が広がっていた。といっても小生はオランダに行ったことがない。写真や映画で見た記憶に照らし合わせているだけなのだが、なんとも懐かしい景色に見える。そのうち機会があれば本物のオランダを訪ねてみよう、と思った次第だった。

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蓮華王院の風神・雷神像は、二十八部衆像と共に、千躰千手観音の眷属として安置されているものだ。風神・雷神の由来については諸説あり、もっとも有力なのは日本神話とそれがもとになった民間伝承に起源を求めるものだが、二十八部衆同様仏教起源だという説もある。蓮華王院の風神・雷神は、宋本における風神・雷神のイメージを形象化したものと言われており、その点では仏教起源説に従っているといえよう。

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由布院に遊んだついでに、吉野ケ里遺跡で日本の歴史を学ぼうというので、九時ころ旅館を辞して吉野ケ里方面に向かった。実はこう決まったのは昨夜のことだ。当初計画では、二日目にハウステンボスに遊び、三日目には諫早湾の干拓現場を見て、長崎空港から羽田へ戻るということ以外何も決まっていないのだった。飛行機と旅館の手配はシズちゃんあひるがやってくれたが、行動計画の詳細は横ちゃんあひるが担当したのだった。その横ちゃんあひるとしては、当初から綿密な計画を用意するというよりは、その場の雰囲気で柔軟に対応するのがよいという判断があったらしく、今日の行動計画は昨夜の旅館での歓談の中から生まれたのだった。

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「死と生(Der Tod und Leben)」と題されたこの絵は、20世紀初頭に流行したフロイトの思想を踏まえた「エロスとタナトス」の具象化とも、ヨーロッパ中世を席巻した「死の舞踏」の現代的解釈とも言われた。

「基督抹殺論」は秋水の遺書のようなものである。彼はこの本を、大逆事件で捕らえられるその年に書き始め、監獄のなかで脱稿した。友人の好意によって出版されたのは、死刑執行の数日後である。秋水の書いた本としてはめずらしく発禁処分を受けなかった。それについては秋水自身、「これなら、マサカに禁止の恐れもあるまい。僕のは、神話としての外、歴史の人物としての基督を、全く抹殺してしまふといふのだ」と手紙のなかで書いている。

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かつてあひるの仲間と由布院に一泊旅行をしたことがあった。たしか十九年前のことだ。いつもの通りシズちゃんあひるが企画したのだったが、そのシズちゃんあひるが脚を骨折して急遽行けなくなり、残りのあひる(たしか十羽だったと思う)がガイド役なしに出かけたのだった。そのせいか、この旅行は惨憺たる記憶をあひるたちに残したのだった。由布院温泉に来たつもりが、泊まった施設は郊外の丘の上にあるリゾートマンションで、あひるたちは2DKの部屋にそれぞれ二羽ずつあてがわれ、食事は一階のエントランスホールで仕出し弁当を振る舞われた。それはまあ我慢できたが、ひどいのは入浴施設がないことだった。それであひるたちは、外湯に浸かりに行ったのだったが、その湯というのがマンションから一丁ほど離れた畑の中にあって、五右衛門風呂に毛の生えたような小さな湯船に粗末な脱衣場が付属しただけの、どう見ても温泉とは言えない代物だった。今ちゃんあひるなどは、立派な門構えの民家を入浴施設と勘違いして、家の中にすたこらと入りこんで居住者を驚かした始末だった。

万葉集巻八は、四季の歌を集めており、季節ごとに雑歌と相聞とに分類されている。相聞の部は、いうまでもなく男女の恋をテーマにしたもので、いつくかの男女の間に交わされた歌が主に収められている。ここではその中から、男女の恋のやりとりをめぐる洒落た歌を鑑賞してみたい。

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「さらば、わが愛/覇王別姫」は、京劇の世界という、中国人にとっても特殊な世界を描いていると思うのだが、我々日本人から見ると、これも中国人の中国人らしい面をよく表現しているように映る。日本でいえば、歌舞伎役者とか伝統芸人の世界を描いているようなものだ。一般人の社会とはおのずから異なってはいるが、それでも日本人的な心情が集約してあらわれている、だからこれも日本文化の一つの側面を表現しているように見える。それと同じようなものだ。

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京都蓮華王院には、千手観音の眷属である二十八部衆の像が安置されている。二十八部衆には、梵天、帝釈天、阿修羅などおなじみのキャラクターのほか、婆藪仙、迦楼羅王像といった地味なものも含まれている。これらが、千躰千手観音とともに収まっている眺めは壮観である。

坂口安吾が「堕落論」の中で、議論の素材として取り上げたのは、日本の伝統的な価値観というべきものだ。それを坂口は、日本婦人の貞操、特攻隊に象徴される皇軍兵士の愛国心、そして天皇制への敬意で代表させたわけであるが、そのいずれについても、茶化すような言い方をして、批判というか、断罪をしている。これに対して当時の日本人は拍手喝采を以て答えた。坂口といえば、敗戦前には風変わりな小説を書くマイナーな作家ぐらいにしか受け止められていなかったのだが、この堕落論によって、いっぱしの文明批評家として時代の寵児になったのである。

「存在と時間」第二編第五章は、「時間性と歴史性」と題して、主に歴史性について論じている。時間性と歴史性がどのような関係にあるのか、ハイデガーの議論は、例によってまわりくどいのだが、要するに、「時間性」が主として現存在の個別的な生き方に限定して論じられているのに対して、歴史性は現存在の共同現存在としての側面、つまり現存在と彼が属する共同体との関連についての議論だということができよう。

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俊乗上人重源は、治承の兵火で焼けた東大寺の復興に奔走した人である。かの西行も、重源に協力して、奥州の藤原氏に砂金の勧進を行ったことが知られている。重源の努力が実って、東大寺は速やかに復興できた。その復興に、運慶をはじめ慶派が総力をあげてかかわった。

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「エリザベート・バホーフェン=エヒトの肖像」に見られたオリエンタリズムを更に押し進めたのがこの「フリーデリケ・マリア・ベーアの肖像」だ。背景に中国風ともモンゴル風とも区別がつかないが、雰囲気としては東洋風のイメージが、隙間なくびっしりと描かれている。モネやゴッホの絵に見えるジャポニズム的な要素とはかなり違っている。

日露戦争は、明治37年(1904)の2月に開戦し、翌38年の9月まで、一年半あまりにわたって戦われた。それこそ日本中が勝利を祈って大騒ぎになったわけだが、幸徳秋水は、内村鑑三らとともに、この戦争に反対した数少ない日本人の一人だった。秋水の日露戦争への反対は非戦論という形で展開されたが、それが戦争を遂行する明治政府の逆鱗に触れ、秋水は38年の2月に官憲に検挙されて、禁固五ヶ月の刑を受けた。

湯原王は志貴皇子の子、天智天皇の孫である。その人が一人の女性(娘子という)と交わした一連の歌が万葉集巻四に収められている。その女性が誰なのか、詳しいことはわかっていない。わかっているのは、妻を持つ身の湯原王が、若い女性に言い寄り、それを女性が心憎からず思っていたらしいことだ。この二人の交わした歌の数々を読むと、万葉時代の男女のあり方の一端が見えてくる気がする。

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「陽炎座」は、「ツィゴイネルワイゼン」同様怪談仕立ての映画である。薄気味悪さという点では「ツィゴイネルワイゼン」以上と言えよう。というのも、この映画では生きている女が幽霊のような真似をし、死んだはずの女が生きているように振る舞うからだ。この二人の女に、松田優作演じるところの新派作家が翻弄される、という筋書きである。

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運慶の四男康勝の作品としては、法隆寺の阿弥陀如来像、教王護国寺の弘法大師像と並んで六波羅密寺の空也上人像がある。空也上人は、平安時代中期に活躍した僧で、浄土教の先駆者として知られ、阿弥陀聖などと呼ばれた。六波羅密寺は彼が創建したとされる。

高島俊男は中国文学者であるが、その中国文学と日本語との関係をユニークな眼で見ている。日本語が中国文学の巨大な影響を受けたことは、歴史的・地政学的な見地からして、ある意味必然なことであったが、それは日本語にとって必ずしもいいことばかりではなかった。中国語と日本語とでは、根本的に異なる言語であるのに、その異なる言語を表記するために作られた漢字を、日本語に取り入れたことで、日本語は非常におかしな事態を多数抱えることになった。もし日本人が漢語というものに接していなかったら、日本人は日本語をあらわすために自前の文字を発明したであろうし、しかがって漢語を用いずに抽象的な表現をするようになったであろう。しかしなまじ漢語を便利に使いこなしてしまったために、そういう可能性をつぶしてしまった。そこで日本人はいまだに日本語の表記にあたって不自然をせまられているばかりか、外国語である漢字を後生大事にしていることは滑稽でさえある。そのように主張している。

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「エリザベート・バホーヘン=エヒトの肖像」と題するこの肖像画は、装飾的なパターンを背景にして、女性の全身像を描いたものだ。女性を十頭身以上の極端なプロポーションで描くのは、クリムトの一貫したポリシーだ。その女性が、シルクの肌触りを如実に感じさせる白いドレスに包まれて、こちら側を正面を向いて立っている。構図としては、クリムトにおなじみのものだ。
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1968年に日活をクビになった鈴木清順は、その後長い間浪人生活を強いられ、映画作りもままならない時期が続いたが、1980年に「ツィゴイネルワイゼン」で劇的な復活をとげた。この映画で一躍世界的な名監督の仲間入りを果たしたのである。

「存在と時間」第二編第三章で、現存在の時間性を抽出したハイデガーは、続く第四章において、その時間性についてさらに詳細に分析する。前の章での議論が、死への存在としての現存在の、一般的な時間性を論じていたのに続いて、この章では、その時間性を、現存在の本来的なあり方及び非本来的なあり方にそれぞれ対応させて、本来的な時間性と非本来的な時間性との差別について明らかにしようとするのである。時間性にこのような差別が生じるのは、現存在が通常は、日常性に陥落しているからである。その陥落は、現存在にとって、避けられない必然性をもっているので、現存在の時間性には、どうしても上のような差別が生じてしまうわけである。この章が「時間性と日常性」と題されているのは、そうした事情を踏まえたものである。

笠金村は聖武朝時代の宮廷歌人として貴人の挽歌を詠む一方、地方に出張した際に土地の伝説を題材にした歌を作ったりして、けっこう幅広く活躍した。万葉集には彼の歌が、あわせて四十五首収められている。その中で、架空の娘の立場に立って、天皇の行幸に従って旅する恋人への思いを述べた歌がある。

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鈴木清順の1967年の映画「殺しの烙印」は、鈴木が日活をクビになった原因となったものだ。60年代の日活といえば、アクション路線で稼いでいたわけで、鈴木のこの作品はある意味究極的なアクション映画なのだが、だから日活路線に沿った作品のはずなのだが、何故か日活の社長を激怒させ、鈴木は一方的に解雇されたのだった。鈴木を応援するものは、一部の熱狂的鈴木ファンをはじめ多くいたようだが、彼らの応援は実を結ばず、以後鈴木は十年間にわたり、本格的な映画作りからはずれることになった。

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