ツィゴイネルワイゼン:鈴木清順

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1968年に日活をクビになった鈴木清順は、その後長い間浪人生活を強いられ、映画作りもままならない時期が続いたが、1980年に「ツィゴイネルワイゼン」で劇的な復活をとげた。この映画で一躍世界的な名監督の仲間入りを果たしたのである。

たしかにこの映画には不思議な魅力がないことはない。不思議すぎて消化不良になるむきもあるかもしれないが、にもかかわらず興業的に成功したのは、この映画が日本人におなじみの怪談仕立てをとっていることに理由があると思われる。その怪談というのも、死んだ人間が生きた人間にとりつくという、伝統的でわかりやすい話であり、そのことから日本人の嗜好に投じたわけだが、その日本的な怪談のエキゾティックな趣が欧米の映画ファンにも届いたのだろうと思う。

女たらしで自分勝手な男(原田芳雄)と、その友人で士官学校のドイツ語教授(藤田敏八)というのが、先に死んだほうがその骸骨を生き残った方に与え、生き残った方は与えられた骸骨を後生大事にするという約束をする。原田が先に死ぬ。ところが藤田は約束を守らないで、遺体を火葬されるにまかせる。そのことに怒った原田の怨念が、妾にとりついて、その妾から藤田が呪われる、という他愛ない話である。その話の中で、題名となったサラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」のメロディが聞こえてくるが、大筋とは何の関係もない。ちょっとした伴奏のような扱われ方だ。

筋書きとしては他愛ないのだが、日本の怪談というのは、他愛ない類の話ばかりなので、それらに比較して、別に見劣りがするわけでもない。他愛なさという点では、四谷怪談とか番町更屋敷のほうがもっと他愛ないからだ。

鈴木がなぜこんな他愛ない怪談話を映画にしたのか、その動機はよくわからない。だがこの映画の醍醐味は、絢爛たる映像美のほうにあるようなので、筋書きのほうはどうでもよかったのかもしれない。怪談話を迫真のものにするために、主人公の性格を思い切りアンリアルでグロテスクなものにし、彼をとりまく脇役たちにも妖艶な印象をまとわせる。それだけでも、映画としては見ものになるだろう。特に、一人二役を演じた大谷直子は、妖艶な感じをかもし出していた。彼女は、最初は温泉町の芸者として原田と藤田の慰み者になり、途中でその芸者によく似た女として原田の妻になるのだが、その妻が産褥で死んだ後、再び原田の妾となって出てくる。その出てくるところが神出鬼没の体裁なので、見ているほうは、彼女が芸者あるいは妾なのか、それとも妻なのか区別が付かなくなる所もある。そのへんは一人二役の効用だろう。

原田らが骸骨にこだわるのは、大谷演じる芸者の言葉が原因だ。この芸者は骨にこだわっていて、骨についての妄想を原田に吹き込む。吹き込まれた原田は、藤田との間で骸骨の交換を約束しあうわけだが、藤田のほうは原田ほどいかれていないから、遺体から骸骨をこぎだすというような無茶なマネはしない。ところが死んだ原田にとって、それは許し難い約束違反だから、妾である大谷に乗り移って、原田を威嚇し続け、ついには原田を呪い殺そうというわけなのである。

こういうわけであるから、この映画にはサスペンスの要素もある。だいたい日本の怪談物というものからして、欧米の基準ではサスペンスドラマである。普通のサスペンスは、生きているものが生きているものを迫害するわけだが、怪談では死者が幽霊となって生きているものを迫害する。この映画の場合には、原田の怨念は妾にとりつくだけではすまず、五歳になる娘にまでとりつき、その娘によって藤田はあの世へと導かれるのである。

以上は筋書きからみたこの映画の解説だが、この映画にはもうひとつ、映像の卓抜さという要素もある。日本の自然の美しさが、色彩豊かに表現されている。その美しい風景を、カメラの長回しでじっくりと映し出す。見ていて実に美しいと感じさせられるシーンが多い。鈴木清順は、映像美にこだわった作家との評価が強いが、この映画はその点では、鈴木の代表作といえるものだ。







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