あひるたちの九州旅行その二:吉野ヶ里遺跡に学ぶ

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由布院に遊んだついでに、吉野ケ里遺跡で日本の歴史を学ぼうというので、九時ころ旅館を辞して吉野ケ里方面に向かった。実はこう決まったのは昨夜のことだ。当初計画では、二日目にハウステンボスに遊び、三日目には諫早湾の干拓現場を見て、長崎空港から羽田へ戻るということ以外何も決まっていないのだった。飛行機と旅館の手配はシズちゃんあひるがやってくれたが、行動計画の詳細は横ちゃんあひるが担当したのだった。その横ちゃんあひるとしては、当初から綿密な計画を用意するというよりは、その場の雰囲気で柔軟に対応するのがよいという判断があったらしく、今日の行動計画は昨夜の旅館での歓談の中から生まれたのだった。

十一時ころ吉野ケ里遺跡に到着した。一見してその規模の巨大さに感心した。立派なエントランスホールがあって、それをくぐると広大な敷地に様々な意匠の構築物が展開し、遺跡というよりテーマパークを連想させるのだった。メインは環濠集落で、これには南北二つの廓があり、それに付随して甕棺を埋めた墓地が広がっている。さらにその外側に水田や畑などが広がり、全体として弥生時代の都市国家のようなイメージなのだった。

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園内循環バスに乗って、まず祭りの広場に向かった。弥生時代にはここで祭りが催されていたらしいが、いまでは一面に紅そばの畑が広がっている。ちょうど花の咲く季節にあたっていて、一面に赤い花が咲き広がっている。この花が咲き終ると実を結ぶのだが、その実は苦い味がして食用には適さないそうだ。

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再びバスに乗って北墳丘墓というところで下りると、そこには資料館があって、墓地を復元したものとか、そこに埋葬されていた甕棺の模型が展示されていた。甕棺は、お椀のような形状のものを二つ抱き合わせた強大などんぐりのような外観を呈している。その中に死者が脚をおしまげた姿勢で横たえられるわけだ。この形状の棺がかなり後の時代まで用いられていたことは、佐倉の歴史博物館の展示品からも学ぶことができる。

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続いて北と南の内郭を見物した。北のほうには主に高床の倉庫が立ち並び、南のほうには見張り台を兼ねた大きな建物のまわりに竪穴式の住居がいくつも復元されていた。その住居は一尺半ほどの深さに穴を掘り、その上に三角錐状の大きな屋根をかぶせていた。外部の地面と内部の穴の境は五寸ほどの高さに土が盛られ、雨水が侵入しないように工夫されている。

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周囲にはおびただしい数の小学生を見かけた。季節柄社会科の勉強を兼ねて遠足に来ている子供たちだ。その子のひとりに声をかけて、どこから来たのかと聞いてみたところ、長崎県から来ましたと言う。ちなみに吉野ケ里遺跡は佐賀県にある。

見物後、エントランスホールの食堂で食事をした。小生はチキンカツカレーというものを注文した。米が赤いので小豆飯かと思ったら、そうではなくて赤い種類のコメなのだそうだ。弥生時代の日本人はこんな米を食っていたのかと思いながら食った。小生にとって、赤いコメを食うのは生まれて初めてのことだ。

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ハウステンボスに向かう途中、武雄神社に立ち寄った。これは横ちゃんあひる推奨のスポットで、樹齢三千年という楠の大樹が見ものだ。その古木は神社裏手の山の中にあったが、根がむき出し、枝ぶりもやせ細って、いかにも三千年の風雪に耐えて来た老木の風格を感じさせた。

その後、まだ時間に余裕があるからと、有田焼の里に立ち寄り、さる店でそれぞれ気に入った焼物を買い求めた。小生は筆立てになりそうなやや深めの大きな茶碗を買った。ところでこの店には、茶碗類の他に骨壺まで売っていた。その骨壺にいろいろなサイズがあるので、わけを聞かれた小生は、それぞれの用途について説明してやった。一番大きな七寸ものは通常の大人用で、それより一回り小さいのは子ども用だ。一段と小さいものがあるが、これは関西で使われているもので、喉仏の部分しか収納しない。そう言いながら、あなたたちも生きているうちに気に入ったものを用意して、自分が死んだらこの壺に骨を収めて欲しいと遺言しておいた方がよい。自分の始末はなるべく自分でつけるのが望ましい、そう言い添えたのであった。しかしながら小生の勧めにしたがって骨壺を買い求めたあひるはいなかった。






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