ハイデガー「根拠の本質について」

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論文「根拠の本質について」は、「形而上学とは何か」と同時に成立した、とハイデガーはこの論文の第三版への序言の中で書いている。「形而上学・・・」は無を熟思しているのに対して、この論文はオントロギッシュな差別をあげているというのだ。無とは「有るものでは無い」ということであり、オントロギッシュな差別とは「有るものと有との間にある無いということ」だとハイデガーは言うのだが、なぜ根拠がそうした差別と係わりがあるのか、この論文を最後まで読んでも、いまひとつしっくりしない。何となく伝わって来るのは、根拠が現存在としての人間の自由な意思に基づく選択(投企といわれる)に根差しているとハイデガーが主張しているらしいことだ。

根拠の問題は、古来根拠率という形で定式化されてきた。色々なやり方があるが、ハイデガーは(ライプニッツを参照しながら)次のように定式化する。「何故に他のものより寧ろこのものが存在するかの根拠がある、何故に別様より寧ろこの様に存在するのかの根拠がある、何故に無よりは寧ろ或るものが存在するかの根拠がある」。こう定式化する一方でハイデガーは、この定式化には、本来説明されなければならない「根拠」という言葉が、すでに根拠を説明するものとして使われていると言って、問題の紛糾ぶりを指摘するのである。

ハイデガーはしかし、この問題の紛糾ぶりと言うか、もつれを解きほどこうとはしない。そのかわりに根拠は超越によって基づけられると言う。こう言うことで、根拠についての議論を、いわばバイパスに導くのだ。根拠の問題は、本来は論理学的な問題なのだが、論理学的にはすっきり説明できない。そこで論理学とは違ったアプローチを適用することで、問題の困難さを和らげようとするわけであろう。

超越についての議論は、「存在と時間」における世界内存在の世界への超越の議論を踏まえている。この議論を踏まえたうえでハイデガーは、次のように言う。「『現有は超越する』とは次のことを謂っている。すなわち、現有はその有の本質において世界形成的にある。しかも次のような幾重もの意味において『形成的』にある。すなわちその意味とは、現有は世界を生起せしめ、世界を形成することで現有自身に或る根源的な見え(形象)を与え、その根源的な見えは、殊更に<対象的に>把握されてはいないが、それにも拘わらずまさしく、その都度の現有自身がその下に属しているところのすべての開示され得る有るもののための先・像<すなわち原・像>として機能している、ということである」(テクストは創文社版全集から、以下同じ)

この辺の議論は、「存在と時間」より前へ進んでいる。「存在と時間」においては、現存在としての人間は世界に向かって自分を企投することで、世界内存在としての自分自身を形成していくという理路に留まっていたのが、ここでは現存在の企投によって世界が生起するというふうに一段進んだ議論になっているわけだ。ということは、現存在としての人間が、世界の存在の根拠ということになる。この論文でハイデガーが言いたかったことはそのことなのだろうと思うのだが、なにしろハイデガーの議論は、あっちへ行ったりこっちへ飛んだりするうえにも、複雑を極めているので、なかなかすっきりとした筋道をつかむのがむつかしい。

現存在の企投は、彼自身の自由な意思にもとづいている。したがって現存在の世界への超越は、彼の自由な意思の発現ということになる。このことから、世界が存在することの根拠は、現存在の意思にもとづくという結論が導かれる。現存在がそこで生きている世界は、現存在自身の意思の産物だというわけである。

もっともこう言ったからといって、ハイデガーが唯心論を展開しているというわけではない。ハイデガーたりとも、世界が個人的な意思によって創造されたとか、いわば人間が神となって世界を創造したとか言っているわけではない。彼が言っているのは、現存在は世界内存在として、事実上世界のうちに投げ出されてあるにしても、その世界を単に受動的に受け入れるだけではなく、自分の意思にもとづいて世界へと働きかけ(超越し)、そのことによって、世界を自分に親しいものとして、或は自分に相応しい環境として、作り直すものだ、ということを言っているに過ぎない。

ハイデガーは言う。「世界への乗り越えが自由それ自身である・・・ただ自由だけが現有にとって、或る一つの世界が支配し世開することを、許容しうるのである。世界は決して有るのでなく、世開する」。ここで世開と言っているのは、世界が世界としてそれ自身を開示するという意味だ。その世界の開示が現存在の自由によって開かれる、そうハイデガーは言っているわけである。

こう言うわけであるから、「自由が根拠の命題の根拠で」あり、更に「自由は根拠の根拠である」と結論付けられる。あらゆる根拠の根拠には自由があるというわけである。この場合、最初の根拠は根拠率が言うところの根拠であり、後の根拠はその根拠を基礎づけるところの根拠ということになる。

このようなことが言えるのは、現存在が世界内存在として世界のうちに投げ出されていながら、あるいはその故にこそ、世界に向かって絶えず超越するように(事実的に)できているからだということになる。ハイデガーは言う。「すべての世界企投は被投的な世界企投である。現有の有の体制にもとづいて現有の有限性の本質を明らかにすることが、人間の有限的な『本性』を『自明的に』設定することのすべてに、先立たねばならず、有限性から初めて帰結して来る諸々の性質の記述のすべてに、更にその上、有限性のオンティッシュな由来を性急に『説明すること』のすべてにも、先立たねばならない」

これが、この「根拠の本質について」の結論的な主張だが、言っていることは、事実的な、したがってまた有限な存在者である現存在の、有限なというのは時間を本質としているという意味だが、そうした時間的に有限な存在である現存在、すなわち人間の自由な選択としての企投に、世界の意味とその根拠があるということのようである。根拠と言ってわかりにくければ、存在の本質と言ってもよい。

こんなわけでハイデガーがこの論文の中で展開しているのは、(根拠率ということで通常考えられるような)論理学の問題ではなく、存在論の問題なのである。論理学の問題としての根拠率は、(ライプニッツがいうように)主語の中にすでに述語の内容が含まれているというという形で表わされたが、存在論の問題としての根拠は、存在のあらゆる根拠は現存在としての人間の自由に根差している、という形を、ハイデガーによれば、とるわけである。

このことを先に述べた根拠率の定義に当てはめると、次のようになろうか。「何故に他のものより寧ろこのものが存在するかの根拠」は、人間の自由にある。人間の自由な意思がそのように選択したからである。「何故に別様より寧ろこの様に存在するのかの根拠」は、これも人間の自由にある。人間の自由な意思がそのように選択したからである。「何故に無よりは寧ろ或るものが存在するかの根拠」は、これもまた更に人間の自由にある。人間の自由な意思がそのように選択したからである。そのことと併せて、人間が時間的に有限な存在としてすでに事実的に世界に投げ出されてあることを考えれば、無(存在しないこと)ではなく有(存在すること)があることの驚きに、それなりの根拠があることが、よくわかるはずだ。

   




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