坂口安吾「白痴」

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「白痴」は、作家としての坂口安吾の名声を確立した作品だ。表だったテーマは、一人の男と白痴の女の奇妙な共同生活だが、彼らが直面する東京大空襲の阿鼻叫喚の地獄が、もう一つの大きなテーマになっている。今日的な視点からこの作品を評価するとすれば、東京大空襲をリアルに描いたことに価値があるのではないか。戦後活躍した作家のなかでは、東京大空襲を正面から取り上げたものはいない。歴史の専門家の中にさえ、東京大空襲は人気のないテーマだった。ひとりだけ、これは自分自身が被災者だった早乙女勝元の、地味な努力があるくらいだ。

坂口が描いたのは、1945年4月15日の空襲である。その前の3月10日の空襲は、さらりと触れられている程度だ。4月15日の空襲は、大森・蒲田を中心に京浜地域の市街地が狙われた。城南大空襲ともいわれるこの空襲では、800人以上が焼き殺された。10万人以上の死者を出した3月10日の東京大空襲に比べれば犠牲者の数が少ないが、これには住民の空襲対策の強化も寄与したのではないか。坂口の空襲シーンを読むと、火に囲まれても慌てふためず、以外と冷静に行動する人々の様子が伝わってくる。坂口は自分自身で実際に空襲を体験したのだろう。でなければ、こういう文章は書けるものではない。とくにとっさの判断で逃げ場を見つけ、それが幸いして焼き死なずにすむところなどは、ある程度の体験の裏付けがなければ書けないだろう。

興味深いのは、主人公が空襲で燃え上がる地域の地勢を考慮し、逃げ場のある方向を判断するところだ。3月10日の下町空襲では、対象地域の外郭線に沿ってあらかじめ焼夷弾による空襲が行われ、したがって人々はその火の中に閉じ込められるかたちで逃げ場を失ったわけだが、それには本所・深川の下町地帯が周囲を運河で囲まれた、島のような地形だったことが(米軍のために)効果を奏した。ところが城南地区は、東が海に、南が川に面し、北と西は開けた地形だ。また本所・深川ほどに密集していない。だから人々には逃げることのできる経路が失われていなかった。そんなこともあって、3月10日ほどの犠牲を出さずにすんだのだと思う。

この空襲の炎の中を、主人公の男が白痴の女を連れて逃げ回る。その白痴の女は二十五・六で、気違い男の女房だったものが、ある日主人公の家に逃げて来たのだった。白痴のことだから動機ははっきりしないが、亭主の暴力に耐えられなかったのだろう。その女を主人公の男は、そのままだらだらとかくまい続ける。セックスのはけ口にしているらしいのだ。女のほうも、体の一部に触られるだけで強く反応すると書かれているから、セックスが好きなのだろう。だが日常生活を含めて、まともな人間としての振舞も、コミュニケーションもできない。つまり生けるでくの坊のようなものだ。唯一の取り柄はセックスができるということで、それだけでも主人公にとっては手元に置いておく価値があるというのだろう。

この女が、空襲の火の中で始めて人間的な表情を見せる。それは主人公の、一緒にいつまでも逃げようという呼びかけに、ごくんと頷いたことだった。「その頷きは稚拙であったが、(主人公の)伊沢は感動のために気が狂いそうになるのであった。ああ、長い長い幾たびかの恐怖の時間、夜昼の爆撃の下において、女が表した始めての意志であり、ただひとつの答えであった。そのいじらしさに伊沢は逆上しそうであった」

だがそんな感慨にふけっている余裕はない。主人公は白痴の女をつれて火の中を逃げ続け、なんとか生き延びることができた。一息ついて女が眠りに落ちた時に、主人公はこのまま女を捨てて行ってしまおうかとも思うが、それも面倒くさくなった。別に女が愛しいわけではない。「この女を捨てる張合いも潔癖も失われているだけだ。微塵の愛情もなかったし、未練もなかったが、捨てるだけの張合いもなかった。生きるための、明日の希望がないからだ」。

明日の希望がないところでは、人間は現在に固着してしまうものだ。主人公にとっての現在とは、傍らにいる白痴の女とともにとりあえず生きていることだ。このとりあえず自分が置かれている状況に身を任せよう。そのほうが楽だし、面倒くさくなくてよい。

こんなわけでこの小説は、明日を失って現在に閉じ込められた人間の張合いのない時間を描きだしている。







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