2017年12月アーカイブ

民謡調相聞歌:万葉集を読む

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巻十三の相聞の部に収められた歌は、いずれも民謡を思わせるような、リズム感と素朴な風情を感じさせる。おそらく古い民謡がもとになっているのだろう。ここではそのうちの長短歌二組を鑑賞してみたい。まず、相聞の部冒頭の歌、

夢二:鈴木清順

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「夢二」は、「ツィゴイネルワイゼン」、「陽炎座」と並んで「大正浪漫三部作」と称され、鈴木清順の代表作である。大正時代のレトロな雰囲気を売り物にしているこの三部作は、幻想的な筋運びとともに、映像の美しさもポイントになっている。大正時代とロマン主義がどういうわけで結びついたか、いまひとつわからないところもあるが、映画の世界での大正時代のイメージは、レトロでかつ幻想的ということになっているらしい。

源氏物語関屋図屏風:宗達の襖絵

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宗達の六曲一双の襖絵「源氏物語関屋澪標図屏風」は、「風神雷神図屏風」と並んで、宗達最高傑作との評価が高い。法橋宗達の落款があることから、寛永七年以降の、宗達の後期を代表する作品である。金地の上に、豪華絢爛たる世界を現出せしめている。

すみだ川の季節感:荷風の世界

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荷風の小説「すみだ川」は、盂蘭盆会が過ぎたばかりの八月なかばの夏の終わりに始まり、翌年の春と夏の境目で終わっている。一年足らずの期間だが、その間に季節は確実に巡り行く。その季節の巡り行きに重ね合わせるように、物語はあわただしく進行してゆく。その物語とは、一人の青年の切ない恋が破れる話だ。恋に破れた青年が、自暴自棄で自分の命を縮めるところで小説は終わっている。

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ルオーは、キリストの顔をアップで描いた絵がおびただしい数に上る。その大部分は、首から下のない頭部だけを描いたもので、文字どおりキリストの顔と呼べるものである。ルオーはまたそのほかに、首から下を入れた、半身像のような絵をたくさん描いた。この作品は、その代表的なものである。

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スティーヴン・スピルバーグの2012年の映画「リンカーン」は、南北戦争と奴隷解放へのリンカーンのかかわりをテーマにしたものである。リンカーンといえば、アメリカ史上もっとも人気のある大統領ということもあって、非常に多くの映画が、さまざまな角度から作られたわけだが、この映画は、奴隷解放についての彼のかかわりに焦点を当て、それとの関連で南北戦争を描き、また彼の家族との触れ合いを通じて人間としてのリンカーンをも描くというものだ。

ブライトバート化するFOXニュース

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FOXニュースといえばもともと保守的なスタンスをとっていて、オバマ時代には政権に対して批判的だったが、トランプが政権をとるや、俄然トランプ寄りの姿勢を明確にしてきた。トランプの方では、CNNなど自分に批判的なメディアに対しては「フェイク・ニュース」と言って攻撃する一方、FOXニュースについては親和的な態度を示し、ニュースソースも優先的に提供しているといった具合で、蜜月状態が生じている。最近ではその蜜月状態が、腐れ縁のべったり関係にまで昇華し、とくにデジタル部門を中心に、トランプさまさまの報道を垂れ流している。そのさまが、あのブライトバートも顔負けだというので、FOXニュースのブライトバート化が方々で云々されるようになっているらしい。

精神:ハイデガー「形而上学入門」

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ユニークなハイデガー論である「精神について」においてデリダは、「精神」という言葉をハイデガーがどのように用いてきたか、その変遷について分析している。それによればハイデガーは、「存在と時間」の時点では、この言葉を注意深く避け、やむを得ず使う場合には引用符付きで使っていた。それが表だって使うようになったのは、有名な総長演説以降のことであり、本格的に使うようになるのは、「形而上学入門」以降のことだとしている。そこで、「形而上学入門」でハイデガーがどのようにこの言葉「精神」を使っているか、改めて注目しながら読んでみたい。

民謡調長歌:万葉集を読む

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巻十三に収められた歌は、長歌とそれに対する反歌だけからなっている。長歌は全部で六十六首あるが、そのうちの七首は「或本に云ふ」とあるとおり、本歌のバリエーションである。二三を除いて詠み人知らずであり、その調べには民謡的なのどかさが感じられるところから、これらの歌が非常に古いことを推測させる。おそらく古い時代の民謡がもとになっていると思われる。

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スピルバーグといえば、SFとかホラー映画とか冒険サスペンス映画とか、とかくファンタジックな映画を作り続けた人だが、その人が「シンドラーのリスト」を作ったときは、一転してシリアスなその内容に世界中の人が驚いた。「プライベート・ライアン(Saving Private Ryan)」は、そのシリアスの路線を受け継ぐものだ。

安倍総理が対中融和に舵を切ったわけ

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最近、安倍総理の対中融和姿勢が際立って見える。ベトナムのダナンで持った首脳会談では習近平に笑顔を振りまき、来年が日中国交40周年になることを理由に、習近平の訪日をみずから提案し、自分自身も訪中する意思があることを伝えた。これに対して習近平は、笑顔と握手で応じた。三年前の首脳会談の時とは大違いだ。あのときには、習近平は安倍の目を見ようともしなかった。露骨に安倍への不快感を示した。

松図:宗達の襖絵

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養源院の客殿には、宗達の襖絵が二十面あったが、今日はそのうち十二面が残っている。松の間と呼ばれる座敷の、東西両面と南面とに、座敷をぐるりと囲むように配置された松の図柄が、力感をもって迫ってくる。

十字架の道(Via Crucis):ルオーの宗教画

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宗教画家としてのルオーは、生涯に夥しい数のキリストの絵を描いた。それらはキリストの顔であったり、また新約聖書に取材したキリストの行いや蒙った迫害をモチーフにしたものだ。この絵「十字架の道(Via Crucis)」は、キリストの受難をテーマにしている。

西郷南洲遺訓を読む

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岩波文庫から出ている「西郷南洲遺訓」は、山田済斎が西郷隆盛に関連する資料六篇を集めて昭和13年に刊行したものを、同16年に岩波文庫に加えたものである。「西郷南洲遺訓」を中心として、「手抄言志録」、「遺教」、「遺編」、「遺牘」、「逸話」からなる。

正述心緒の歌が、心の内をストレートに表白するのに対して、寄物陳思の歌は、事物にことよせて自分の思いを述べるものである。同じく事物を介しているとはいう点で比喩歌に似ているが、比喩歌が自分の思いの内容を事物にたとえるのに対して、こちらは、事物を手掛かりにして自分の思いを述べるという違いがある。もっともその境は、あまり厳密ではない。

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スティーヴン・スピルバーグの映画「ジュラシック・パーク(Jurassic Park)」は、現代の地球によみがえった恐竜が人間を襲うという恐怖を描いた作品である。ホラー映画である点では「ジョーズ」の系列に入り、異世界の生きものと人間との関わりを描くと言う点では「E.T.」と同じ系列に入る。同じ異世界の生きものでも、地球外の生きものとは共存していたのに対して、過去の遺物とは言え、同じ地球の生きものとは共存できないというのは、スピルバーグなりの批判意識のあらわれかもしれない。

日本の産業力は回復したか?

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ここ数年、日本の景気は上向いている。なんだかんだ言っても、景気の良さは株価に反映しているし、雇用も完全雇用に近い状態だ。そうした景気の良さは、賃金の上昇や物価の上昇といった指標には現れてはいないが、したがって景気の実感が末端まで行き渡っているわけではないが、トータルで見ればここ数年の日本の経済は好調を続けていると言ってよい。

白象図:宗達の養源院杉戸絵

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養源院本堂廊下の東端に、西端の唐獅子図に向き合う形で、「白象図」の杉戸絵がある。「唐獅子図」同様二枚一組で、向かって左側には、牙をむきだして身構え、今にも敵に襲い掛かろうとしている象が、右側には、その象を見下ろしている仲間らしい象の姿が描かれている。

すみだ川:荷風の世界

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「すみだ川」は、荷風文学の出発点に位置すると言ってよい。荷風はそれまでも、多数の小説を発表し、いっぱしの文学者として一目置かれるようにはなっていたが、それらは、今読めばそらぞらしい習作の域を脱してはいない。洋行体験を踏まえて書いた小説などは、啄木の罵倒を待つまでもなく、到底読むに堪えるとは言えない。それがこの「すみだ川」に至って、荷風は自分なりの世界を確立した。それは一言で言えば、古い日本へのこだわりと言ってもよいが、その古い日本へのこだわりが、この小説のなかで形を整えたというわけである。以後荷風の小説は、この「すみだ川」の延長上に、ある意味華麗な世界を繰り広げてゆくことになるであろう。

聖顔:ルオーの世界

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ルオーは1912年以降、キリストの顔、聖顔を繰り返し描き続けた。その大部分は、文字通りキリストの顔をアップで映し出すように描いたものだ。顔だけで、首から下のないものである。その顔は、長く伸びた鼻、大きく見開いた目、おちょぼぐちのように小さな口という特徴をもっている。その顔を画面の中心にどっかりと据え、その周辺を比較的単純なパターンのようなものでかたどっている。

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スピルバーグの映画「インディ・ジョーンズ」シリーズは、考古学者インディ・ジョーンズの奇想天外な冒険を描くシリーズで、四作が公開された。そのうち「インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説」は第二作目にあたる。各作品の間には、主人公がインディ・ジョーンズであるということ以外に、共通点はない。その点は007シリーズとよく似ているが、荒唐無稽さではそれ以上だといってよい。

メキシコのギャングが警官の首に懸賞金

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メキシコでは、ギャングのボスが警官の首に懸賞金をかけたというので、ちょっとした騒ぎになっているという。懸賞主はメキシコの有力な麻薬マフィア、ハリスコ新世代カルテルのボス、ヴァルデスだ。ヴァルデスは、地元警察の幹部カペラの首に100.000ペソ(約5.000ドル)の懸賞金をかけたそうだ。メキシコでは、私的な恨みを晴らすために懸賞金をかけることがよくあり、その懸賞金は有効に使われるケースが多いそうだから、今回も懸賞金をかけられたカペラの首はほぼ間違いなくはねられるだろうともっぱらの噂だ。

存在とはなにか、この根本的な問いについてハイデガーは、「形而上学入門」においても、言葉の文法や語源解釈という彼一流のやり方を駆使して解明してみせる。そのやり方があまりにも巧妙なので、読者はなんとなく説得されたような気もするし、また欺されているような気もする。そのへんの呼吸はハイデガー自身も心得ているようで、次のように言い訳しているほどだ。「ここでわたしが述べたことはじっさい、既に通り言葉になってしまっているハイデガー的解釈法の強引と偏狭との成果にすぎないだろう」(川原栄峰訳、以下同じ)

万葉集巻十一及び十二は、それぞれ柿本人麻呂歌集からの相聞歌を収めている。それらは正述心緒及び寄物陳思に大別される。この二つの分類は、柿本人麻呂歌集以外の歌にも適用され、それぞれの巻で人麻呂歌集に続いて載せられている。正述心緒とは、恋の思いをストレートに表白した歌であり、寄物陳思とは物に寄せて恋の思いを詠ったものである。ここでは、巻十一に収められた正述心緒の歌を鑑賞してみたい。

E.T. スティーヴン・スピルバーグ

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E.T.は、地球の子供と宇宙人との交流をテーマにした作品である。スピルバーグは前作の「未知との遭遇」で、UFO で地球を訪れた宇宙人と、それを迎える地球人との出会いを描いていたが、それはほんの挿話程度の扱いで、宇宙人そのものについて多くを語ることはなかった。この「E.T.」では、その宇宙人に焦点を当てて、宇宙人のなんたるものかについて、また彼らと我々地球人との交流の可能性について、存分に考えさせる映画になっている。

唐獅子図:宗達の養源院杉戸絵

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養源院は、三十三間堂に隣接する浄土真宗の寺院。秀吉の側室淀殿の祈願で、淀君の父浅井長政を供養するために、文禄三年(1594)に創建された。その後元和五年(1619)に焼失したが、同七年(1621)に淀君の妹で徳川秀忠夫人の崇源院が再興した。その際に、現在の本堂で、当時の客殿にあたる建物の内部に、狩野派と宗達による襖絵等が描かれた。狩野派は、徳川家に縁のある画師であるから、養源院の装飾に加わるのは自然であるが、一介の町絵師にすぎなかった宗達がなぜこのプロジェクトに参加できたか。いろいろな憶測がなされている。

傷ついた道化師:ルオーの世界

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「傷ついた道化師」と題するこの絵は、「小さな家族」と同じく1932年に描かれた。この絵にも、親子らしい三人の道化が出てくる。真ん中にいる母親らしいものが、傷ついたのだろう。それを夫らしい右側の男と、子どもらしい左側の少年が気遣っている。

山崎今朝弥「地震・憲兵・火事・巡査」

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山崎今朝弥は正義派の硬骨弁護士として知られている。正義感が豊かなことでは日本の法曹史に屹立した存在だった。また人間性の豊かなことでも群を抜いていた。その豊かな人間性には諧謔趣味も含まれていた。その諧謔趣味が一風変わっている。日本国の公爵である山形有朋に対して自分を米国伯爵と自己紹介したが、無論米国に貴族制度があるはずはないから、それは諧謔を真面目くさった顔で披露したわけである。彼はまた放屁の常習犯だったらしいが、放屁の際にはさすがに真面目な顔が憚られたか、屁の音に合わせて罪のない笑い声をたてたようである。

柿本人麻呂歌集の旋頭歌:万葉集を読む

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万葉集の巻十一及び巻十二は、「古今相聞往来歌類」と称されるとおり、新旧入り混じっての恋の歌を集めたものである。その冒頭を飾るのが、柿本人麻呂歌集及び古歌集からとられた旋頭歌併せて十七首である。柿本人麻呂歌集からとられた歌は、引き続き乗せられており、両巻ともまず人麻呂歌集の歌を載せた後で、それ以外の歌を載せるという体裁をとっている。人麻呂歌集の歌が特別な扱いを受けているわけで、いかに人麻呂が重視されていたか、よくわかる。それらの歌は、必ずしも人麻呂自身のものでないものが多いのだが、それでも歌の格としては、一段と優れているので、昔から重視されていたのであろう。

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1977年公開のアメリカ映画「未知との遭遇(Close Encounters of the Third Kind)」は、UFOをテーマにしたSFファンタジー映画である。地球のあちこちに出没するUFOに、人類が接近を試み、ついに両者が遭遇して意思疎通に成功するプロセスを描いている。ふつうこの種の物語は、とかく宇宙人と地球との戦いという様相を帯びがちだが、この映画にはそういう要素はない。UFOの宇宙人は地球人に対して友好的であるし、地球人のほうでもUFOを友人として受け入れる。そこがスティーヴン・スピルバーグらしいところと言えよう。

蓮池水禽図:宗達の水墨画

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宗達が水墨画の傑作を生みだすのは、中期以降のことだ。宗達の水墨画の最大の特徴は、それが金銀泥絵の延長として描かれたことだ。銀泥は、水墨と共通する性質があるので、銀泥画が自然に水墨画に移行できるということもある。その境界を感じさせるのが、「蓮下絵百人一首和歌巻(断簡)」だ。この絵は、銀泥で描かれたものだが、一見したところ水墨画とほとんど同じ印象を与える。宗達はおそらく、銀泥画に成熟したあとに、水墨画に進んだのだろうと思われる。それは家業の金銀泥絵から出発した宗達にとって、飛躍だったにちがいない。

川上未映子「乳と卵」

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村上春樹は川上未映子が気に入ったらしく、彼女との対談集(「みみずくは黄昏に飛び立つ」)では腹蔵のない会話を楽しんでいるのが伝わってきたが、村上はまた川上の小説家としての才能にも敬意を表していて、その理由として川上の文体の独自さをあげていた。村上自身、作家の才能は文体によってはかられると考えており、また作品の価値も文体によって左右されると思っているようなので、ユニークで迫力のある文体を駆使する川上を高く評価するというわけであろう。

小さい家族:ルオーの世界

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ルオーは生涯を通じてサーカスにモチーフをとった作品を多く描いた。1903年ごろから描き始めたそれらの絵は、当初は道化などの人物をアップにしたものが多かったが、1930年代に入ると、複数の人物を主題にして、複雑な構図の絵が増えるようになる。1932年に描かれた上の絵は、そうした新しい傾向を感じさせるものである。

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1975年のアメリカ映画「ジョーズ(Jaws)」は、スティーヴン・スピルバーグの出世作だ。スピルバーグはこの映画によって一躍名声を獲得しただけではなく、ホラー映画の歴史に一ページを書き加えた。この映画は、ホラー映画を一段と深化させたのである。

アラバマの田舎者でも恥は知っている

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米上院のアラバマにおける補欠選挙で、民主党の候補者ダグ・ジョーンズが共和党のロイ・ムーアを破り、民主党に四半世紀ぶりに上院の議席をもたらした。アラバマと言えば、先の大統領選において、トランプがヒラリーに28ポイントの差を付け、圧倒的な勝利を収めた州であり、アメリカの中でも最も共和党の基盤が強いと言われる。そこで民主党が勝ったことの意味は大きい。というより共和党の負けた意味は大きいと言うべきだろう。というのもこの選挙は、共和党のオウンゴールのようなものだったからだ。

ハイデガー「形而上学入門」

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「形而上学入門」は、1935年のフライブルグ大学での講義を文章化して1953年に発表されたものである。これに対して、アドルノが強く反発し、その反発を梃子にしてハイデガー批判の書「本来性という隠語」を書いたことはよく知られている。アドルノがそんなに反発したわけは、ハイデガーがナチス時代における自分の生き方についてまったく反省しておらず、むしろ居直っているかのような印象を受けたからだと思われる。実際この本を読むと、あいかわらずドイツ民族優越主義を思わせる言葉があちこちにある。その点ではハイデガーは、ナチス時代と全く違っていない、そうアドルノが受け取ったのも無理のないところがある。

柿本人麻呂歌集の挽歌

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万葉集巻九挽歌の部は、柿本人麻呂歌集からとられた五首の歌が冒頭に置かれている。その一首目は、「宇治若郎子の宮所の歌」と題するもので、残りの四首は「紀伊の国にして作る歌四首」である。これらの歌が挽歌とされているのは、かつて紀州の浦でともに過ごしたらしい女性の面影をしのんでいるからで、その女性は既に死んだのだと考えられる。人麻呂は、紀伊への行幸に供奉したことがあるので、その折に共に遊んだ女性の面影を、あとで回想したのではないかと思われる。無論かつて遊んだ紀伊においてである。

崖の上のポニョ:宮崎駿

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宮崎駿の2008年公開のアニメ映画「崖の上のポニョ」は、人間の少年と人魚の少女とのふれあいを、暖かいタッチで描いたものである。冒険の途上危険な目に遭った人魚の少女が少年に助けられ、人魚として少年に大事にされているうちに、少年への気持ちが実って人間の姿に変わり、最後には人間の子として少年の家族に迎えられるという筋書きだ。

扇面散貼付屏風:宗達の扇面図

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宗達の実家俵屋は、絵屋として、市中にかなり知られていたようである。俵屋は、基本的には大衆的な絵屋として、貴族や寺社の求めに応じて書くというより、庶民の需要に応えていたものと推測される。その需要の主なものは、襖に張り付けることを目的とした図であるとか、扇の装飾だったと思われる。これは、宗達の家業というべきものだから、おそらく生涯のあらゆる時期にわたって制作したのだと思われる。しかし、単体として残っているものは数少ない。特に扇の場合には、扇の形としてではなく、扇面のために書かれた図柄を、襖に張り付けた形のものが残されている。

赤鼻の道化師:ルオーの世界

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「赤鼻の道化師」と題するこの絵は、1906年ごろに描いたものを、1925年ごろから28年ごろにかけて描きなおしたものだ。原型がどうだったか、伺いしれないが、おそらく構図はそのままで、色彩がかなり暗かったのだと思われる。それをルオーは、色彩を中心に描きなおした。その結果、コントラストの激しい、このような形に収まった。

大杉栄評論集を読む

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大杉栄は、幸徳秋水のようにはまとまった著作を残さなかった。彼が残したのは、方々の雑誌に発表した評論のような短い文章ばかりである。それらの文章を集めて一冊にしたものが岩波文庫から出ているので、それを読めば、大杉の思想的な立ち位置がだいたいわかる。それを一言であらわせば、徹底した個人主義と、権力の否定、そしてそれらがもたらすところの無政府主義、つまりアナーキズムといったことになろう。

日本橋に高速道路はいらない

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首都高速の都心部分の老朽化に伴い、関係機関の間で再整備の検討が進んでいるという。検討機関とは、国交省の道路部隊、東京都の土木部隊、首都高速道路の管理者である首都高速道路株式会社(旧首都高公団)の三者である。これに地元自治体の中央区が加わっているようだが、これは将来巨額に上る整備費用の一部でも負担させるための布石だと受け取られている。

田辺福麻呂の挽歌:万葉集を読む

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田辺福麻呂は、大伴家持とほぼ同時代人で、おそらく下級官吏だったと思われる。万葉集巻十八には、天平二十年の春、越中の国守だった家持の屋敷に、福麻呂が左大臣橘家の使者として赴き、宴席にはべりながら、家持らと歌を交わしたことが触れられている。

ハウルの動く城:宮崎駿

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「ハウルの動く城」は、普通の人間の少女が魔法の世界に紛れ込んで、魔法使いたちの争いに巻き込まれるさまを描いている。人間の少女が異界に紛れ込み、そこで冒険をするというテーマは、前作の「千と千尋の神隠し」と似ている。「千」のほうは、両親と一緒に神隠しにあって異界に紛れ込むわけだが、その点では日本の伝説の世界を踏まえているわけだが、こちらは主人公の少女ソフィーが、ふとしたことから一人の青年と出会い、それがきっかけとなって、異界へとワープする。このワープという現象は、現実世界から異界への移動についての、これは西洋的な伝説の装置といってよい。

沈黙を破る人々:TIMEのPerson of the Year

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TIME恒例の Person of the Year に,今年はセクハラ被害について公然と発言した女性たちを、「沈黙を破る人々 The silence breakers」と命名したうえで選出した。今年は、こうした女性たちが声を上げたおかげで、ハーヴィー・ワインシュタインとかアル・フランケンといった各界の実力者が相次いで職を失い、セクハラはかならずしも得になる行為ではないという通念を、改めてアメリカ社会に喚起した。それは本来なら当たり前のことなのだが、その当たり前のことが今までのアメリカでは当たり前でなかった。正義は踏みにじられ、悪がはびこってきたのだ。そういう憂うべきアメリカを本来の姿に立ち戻すうえで、彼女らの行為には偉大な意義がある、というのが選出理由である。

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蓮下絵百人一首和歌巻は、宗達と光悦とのコラボレーション作品のうちで、掉尾をかざるものである。そのことは、巻末に置かれた「大虚庵光悦」という落款から推測できる。光悦がこの落款を用い始めるのは、鷹が峰の光悦町への移住後のことだからだ。その事実をもとに、この図の制作年代は、元和年間(1515-23)の初頭ころと推測される。

「みみずくは黄昏に飛び立つ」は、女性作家である川上未映子による村上春樹へのインタビューである。「騎士団長殺し」の執筆前後になされたということもあり、「騎士団長殺し」についての舞台裏的な話が多い。タイトルに出てくるみみずくにしてからが、「騎士団長殺し」の中に出てくるキャラクターだ。そのみみずくが黄昏に飛び立つというと、ヘーゲルの有名な言葉「ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ」を想起するが、ミネルヴァの梟は哲学を体現して飛び立つのに対して、村上のみみずくは物語を抱えて飛び立つのだそうだ。

ピエロ:ルオーの世界

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今日いわゆる「ルオー的な」絵として知られる絵をルオーが描くようになるのは、1920年代の半ば頃である。上の絵は、1925年に描かれたものだが、これなどは、いかにもルオーらしい。この一年前に描いたサーカスの道化の絵と比べて、相違は一目瞭然である。だから筆者は、この絵をもってルオー的な様式を確立したものだとし、また1925年をルオーにとっての決定的な転換の年だとしたい。

千と千尋の神隠し:宮崎駿

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「千と千尋の神隠し」は、神隠しにあった少女の異界での冒険を描いたものだ。宮崎は前作の「もののけ姫」で、動物の怨霊がこの世界で跋扈するさまを描いたわけだが、ここではこの世界から異界へとワープした少女が、そこで本物のもののけたちと出会うさまを描いている。そのワープのきかっけとなるのが、日本古来の伝説を彩る神隠しというわけだ。

ハイデガー「プラトンの真理論」

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「プラトンの真理論(真理についてのプラトンの教説)」は、1940年に論文として発表され、1947年の「ヒューマニズムに関する書簡」に併載されたものであるが、その原型は1930/31年の講義に遡る。ハイデガーは論文化するにあたって、講義録に大幅な手を加えたと言われているが、真理の本質とは存在がそれ自身をあらわにすること、或は存在がかくれなくあらわになること、とする真理観については、同時期の講義「真理の本質について」と同じ立場に立っており、したがって思索の基本線には変更はないと考えてよい。

筑波の歌垣:万葉集を読む

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高橋虫麻呂には、筑波山の歌垣を詠んだ歌がある。「筑波嶺に登りて嬥謌會(かがひ)を為る日に作れる歌一首併せて短歌」がそれである。歌垣とは、筑波地方に古くから伝わる風習で、常陸の国風土記にも記されている。その歌垣を虫麻呂は、民間風俗を紹介するようなタッチで描いている。そこからして、歌としての面白さには欠けるという指摘もあるが、古代の風習を生き生きと描写していることには、貴重な意義があると言えよう。

もののけ姫:宮崎駿

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もののけと言うと、昔話に出てくる妖怪のことが想起されるが、この映画のなかでもののけ姫とよばれているのは、妖怪ではなく山犬に育てられた人間の娘のことである。そのもののけ姫が人間を敵として戦う。その戦いに一人の少年が巻き込まれて、もののけ姫と人間との板挟みになる。そんな話を、この映画は描いている。

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宗達は若年の頃、本阿弥光悦とのコラボレーションからいくつもの傑作を生みだした。光悦は、宗達とほぼ同年齢と推測されるが、その多面的な才能によって、慶長期から徳川時代初期にかけての日本の美術をリードした巨匠である。その光悦と宗達は遠いながらも親戚の間柄で、それが機縁となって両者のコラボレーションが実現したという見方もあるが、必ずしも確証があるわけではない。わかっていることは、宗達の描いた下絵の上に、光悦が書を載せ、両者が相まって、独特の美的世界を演出したということである。光悦の才能は書に限られるわけではなかったが、書においては当時の日本を代表する書家であり、それにユニークな絵師であった宗達が協力することで、前代未聞の新しい美的境地が開発されたと言える。

サンフランシスコ市が、中国、韓国、フィリピンの女性が日本軍の慰安婦にさせられたことを物語る像等を、市の財産として受け入れたことについて、サンフランシスコ市と姉妹都市関係の長い歴史を持つ日本の大阪市の何某市長が、両市の信頼関係が崩壊したと言って、姉妹関係都市を絶縁する決定を行った。この決定に至るまで、大阪市長は何度かサンフランシスコ側に対して、受け入れないように申し入れていたようだが、サンフランシスコ側はその申し入れにほとんど無視に近い扱いをしたようだ。

鏡の前の娼婦:ルオーの世界

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ルオーは1903年のサロン・ドトーヌ展に出品することで画家としてのキャリアを出発した。その頃から1910年代の半ばごろまでにおけるルオーの主なモチーフは、サーカスとか娼婦といったものだった。これらのモチーフは、ピカソなども手掛けており、またそれ以前から多くの画家が好んで描いたものであって、ルオーに限らず時代の流行と言ってよいものだった。だが、ルオーの描き方には、ある特徴がみられた。それはサーカスの芸人や娼婦たちを、好奇の視線の先にあるものとしてではなく、精神的な存在として描くことであった。その精神性がやがてルオーを、キリスト教的な精神世界の表現に向けさせることになるのである。

大杉栄の日本脱出記

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大杉栄が日本を「脱出」してフランスに旅行したのは、甘粕に殺される直前のことだ。1922年12月に日本を船で出航した大杉は、翌年の7月に帰国したが、それからほどへず関東大震災に見舞われ、その混乱に乗じて憲兵隊に連行され、有無をいわさず殺されてしまうのである。そんなわけで、大杉のフランス行きとそれを記録した「日本脱出記」は、冥途への新たな旅の置き土産のようなものと言える。

筑波山に登る歌:万葉集を読む

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筑波山は、常陸の国のシンボルであるとともに、東国の山岳信仰の中心地であった。二つの頂をもち、それぞれを男峰、女峰と呼び、男女の神として広い地域で信仰された。その筑波山に、常陸の国の役人として赴任した高橋虫麻呂は何度か登ったようで、筑波山に登った様子を詠った歌が万葉集の巻九に収められている。

となりのトトロ:宮崎駿

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宮崎駿の初期の劇場用アニメ映画は、人間同士が愚かな戦いをするところをテーマにしていたが、四作目の「となりのトトロ」に至ってはじめて、戦いとは縁のない牧歌的な人間関係(人間・怪物関係を含めて)を描いた。宮崎作品にはもともとこうした牧歌的な要素が強かったのだが、そしてテレビ用のアニメ作品には牧歌的な作品が多かったのだが、劇場上の作品では、そうした要素はあまり受けないと考えて好戦的な雰囲気の作品を作り続けていたのだと思う。だからこの「となりのトトロ」は、宮崎にとっては冒険だったにちがいなく、それでもこれを作り出したのは、一定の自信の現れだったように思う。

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俵屋宗達の作品のうち、年代がはっきりしている最古のものは、慶長七年(1602)に行われた厳島神社所蔵「平家納経」補修作業に参加した際の補作である。平家納経とは、長寛二年(1164)に、平清盛が一門を率いて厳島神社に参拝したした際に奉納した経巻で、願文を添えて三十三巻からなり、各巻とも法華経の経文に金銀泥で描かれた図柄が添えられていた。これの保存状態が悪くなったため、補修作業が行われたわけだが、その作業に宗達も加わったのである。平家納経といえば、重要文化財として認識されていたはずであり、それの補修作業に加わったということは、宗達の技量が世に認められていたことを物語ると考えてよい。この時宗達は、三十歳前後だったと推測される。

坂口安吾「桜の森の満開の下」

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「桜の森の満開の下」は、坂口安吾の小説の代表作といってよい。短編ながら、坂口らしさがふんだんに盛られている。筋書きもユニークだし、文の運びも軽快だ。それでいて幻想的な雰囲気を存分に醸し出している。こういう幻想的な世界は、上田秋成以外には絶えて描ける人がいなかったもので、そういう点では坂口は、非常に珍しいタイプの作家といってよい。

浅草橋でフグを食う

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四方山話の会の今年の例会は先日の歌声喫茶が千秋楽だったはずなのだが、どういうわけかおまけがついて、浅草橋のたのやというフグ料理屋でフグのフルコースを食うことになった。例によって広い交際を誇る浦子の差配だ。

ジョルジュ・ルオー:キリスト者の幻視

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(ジョルジュ・ルオーの自画像)

ジョルジュ・ルオーは、20世紀最高の宗教画家と言われる。彼の絵は深い宗教性を感じさせるのであり、それを見る者を宗教的な恍惚にいざなう。彼のそうした宗教的な芸術表現は、14歳で弟子入りしたステンドグラスの職人としての修行に根差していることはよく言われる。というのも彼は生来敬虔なキリスト教信者であったわけではなく、カトリックに入信したのは1892年、21歳のときであった。その彼がキリスト教をテーマにした宗教的な作品を多く描くようになったのは、ひとつには少年時代のステンドグラスの修行と、生まれながらでなく自分の意思によって選び取った信仰の賜物と言ってよいのではないか。

天空の城ラピュタ:宮崎駿

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1986年公開のアニメ映画「天空の城ラピュタ」は、スタジオ・ジブリとしての最初の劇場映画である。題名のラピュタからは、スウィフトの小説「ガリヴァー旅行記」の一章が想起されるが、名称を借りただけで、内容的には何のつながりもない。筋書きは、宮崎駿の純粋のオリジナルである。

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