となりのトトロ:宮崎駿

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宮崎駿の初期の劇場用アニメ映画は、人間同士が愚かな戦いをするところをテーマにしていたが、四作目の「となりのトトロ」に至ってはじめて、戦いとは縁のない牧歌的な人間関係(人間・怪物関係を含めて)を描いた。宮崎作品にはもともとこうした牧歌的な要素が強かったのだが、そしてテレビ用のアニメ作品には牧歌的な作品が多かったのだが、劇場上の作品では、そうした要素はあまり受けないと考えて好戦的な雰囲気の作品を作り続けていたのだと思う。だからこの「となりのトトロ」は、宮崎にとっては冒険だったにちがいなく、それでもこれを作り出したのは、一定の自信の現れだったように思う。

父親と二人の少女が田舎の古くて小さな家に越してくる。そこは母親が入院している病院の近くの集落にあり、母親を見舞うのに便利なほかに、退院後療養するにも向いている。そこで、父親と二人の少女は、母親が早く退院するのを願いつつ、田園ののどかな風景に囲まれながら暮らすのだ。そして、その暮らしには、近所の人たちとの温かい触れ合いのほかに、土地の精霊ともいうべき、愉快な怪物との交流も含まれていた。

「となりのトトロ」というのは、自分たちの家の隣に住んでいる怪物のことで、少女たちはその怪物を、絵本で読んだことのあるトロルに違いないと確信する。彼女たちはまだ小さいので、トロルと言えないで、トトロというのである。

そのトトロとの間でかわされる友情を中心にして物語は展開してゆく。その辺は、実にのんびりとしていて、宮崎の宮崎らしさを感じるところだ。こんな牧歌的な雰囲気を、のびのびと描けるのは、宮崎以外いないのではないか。牧歌的にすぎると、ついだらけて退屈に陥りガチなものだが、宮崎の場合には見ているものを退屈させない。その辺は実に微妙な細工を通じて、観客の心を刺激し続けるテクニックにたけているのだと思う。

映画のクライマックスは、迷子になった小さな妹めいを追って、姉のさつきが必死になって探し回るシーンだ。さつきはまだ子どもとはいえ、母親がいないこともあって、責任感は旺盛だ。しかも、妹がいなくなったのは、自分との喧嘩が原因だと思いつめ、必死になって探し回る。その姿を見かねた集落の人々も一緒になって探してくれるほか、トトロまでもが協力してくれる。トトロの仲間である猫のバスが、サツキを乗せてめいの居場所を探し、ついに二人を引き合わせてやるのだ。

トトロといい、猫のバスといい、宮崎のファンタジーの産物だろう。こういうファンタジーは、なかなか並みの人間には思い浮かばない。







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