ハイデガー「プラトンの真理論」

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「プラトンの真理論(真理についてのプラトンの教説)」は、1940年に論文として発表され、1947年の「ヒューマニズムに関する書簡」に併載されたものであるが、その原型は1930/31年の講義に遡る。ハイデガーは論文化するにあたって、講義録に大幅な手を加えたと言われているが、真理の本質とは存在がそれ自身をあらわにすること、或は存在がかくれなくあらわになること、とする真理観については、同時期の講義「真理の本質について」と同じ立場に立っており、したがって思索の基本線には変更はないと考えてよい。

この論文は、プラトンの真理観が、真理とは存在がそれ自身を隠れなくあらわにすることだとする見方に一旦は立ちながら、そこに真理の本質をめぐるプラトン独自の考え方を介在させることで、真理を人間の認識作用と深く結びつけ、そのことを通じて、真理とは事象と認識との一致にあるという、西洋哲学の伝統的な考え方の基礎を作ったとする見方を、プラトンの有名な「洞窟の比喩」をもとに展開したものである。

ハイデガーは、「洞窟の比喩」の意味するところを次のように整理する。洞窟の中に捕らわれ、壁の方向しか見えない人間にとっては、壁に映し出される影だけが現実的に見えるものである。彼にはそれ以外のことは見えない。したがって影だけが彼にとって唯一の現実である。ところが体の方向を動かすことが出来るようになると、彼には影の原因となったものが見えてくる。その原因となったものが、彼の背後の蝋燭の光によって、壁の上に影となって現われていた、ということを理解するのである。この段階の彼にとっては、認識は一段と深化しているということが出来る。しかし洞窟の外に出ると、事態は一層違った相を呈する。さまざまな事象は太陽の光に照らされて、洞窟の中にいるときより明瞭さを増すのである。これをハイデガーは、プラトンに代わって、存在が隠れなくあらわになっている事態だとする。この存在が隠れなくあわらになっている事態こそが、ハイデガーにとっては、真理の本質なのである。それをハイデガーは、これもプラトンに代わって、ギリシャ語のアレーテイアという言葉で呼ぶ。真理の本質とは、このアレーテイアという言葉が表している、存在の隠れなさを本来さすものなのである。

ところがプラトンは、アレーテイアの段階における存在の真理では満足しなかった。彼はそこから一歩踏み出して、真理の本質を、単に存在の隠れなさという、存在自体の属性として捉えるにとどまらず、それが人間にとって持つ意味を踏まえて、真理を人間の認識の相関者として位置づけたのである。

何故プラトンはそんなことをしたのか。ハイデガーの解釈によれば、隠れなくあらわになった存在にとって最も重要なことは、そのものの何であるか、ということである。これは存在の本質規定として、今日本質存在といわれるものである。本質存在とは、存在のそれであること、つまり事実存在に対立した概念である。ハイデガーによれば、プラトン以前にそんな対立は存在しなかった。プラトン以前における存在についての理解は、本質とか事実と言った対立以前の生き生きとした生成する自然として捉えていた。プラトンが始めてこの対立を持ち込んだのである。その結果、事実存在に対する本質存在の優位と、真理の見方の変化が起こった。真理の見方ということについていえば、真理とはもはや存在が隠れなく現われることを意味するというよりも、人間の認識が事象と一致することだとされるようになった。その場合、事象とはものの本質存在をさすようになる。人間の認識が、存在するものの、それが何であるか、つまり本質存在と一致すること、それが真理だとされるようになったわけである。

プラトン自身はこの本質存在をイデアとして捉えている。イデアが顕現することで個別の事象が成立する、というのがプラトンの基本的な考え方である。その場合イデアとは、存在のそれ自身による規定性というよりは、人間の認識作用の果実のようなものとしての性格を持つ。イデアは、存在だけでは生まれえない。人間の認識作用の成果なのである。そこが、真理とは存在の隠れなき現われとして、存在だけに真理の根拠を求める従来の素朴な考え方(ハイデガー自身もこの立場に立っていると主張している)と異なるところである。このように真理を人間の認識と関連付けるやり方をハイデガーは、ホモイオーシスと名づける。ホモイオーシスとは、認識と事象との一致のことをさすギリシャ語である。「言表が事態に一致し、従ってホモイオーシスである限り、それは真と言われる。真理のこの本質規定は、プセウドス即ち正しくないものという意味での虚偽に対する反対物として、正しさとして考えられている」(木場深定訳)

こうしたプラトン解釈を通じてハイデガーは、プラトンにおいて、真理の見方についての転回が起きたとしている。ハイデガーは言う。「真理はもはや隠れなさとして存在そのものの根本動向(特徴)ではない。むしろ真理は、理念の軛の下に繋がれて正しさとなっているから、爾後は存在するものの認識を特徴付けるものである」

この真理観は、ハイデガーの時代まで西洋の哲学的な志向を制約してきたとハイデガーは見る。ニーチェでさえも、この真理観に捕らわれているとハイデガーは言う。というのも、「真理とは思惟の正しくないことだというニーチェの規定には、言表の正しさとしての真理の伝統的な本質への同意が含まれている」からである。

ハイデガーとしては、真理をその本来的な姿において取り戻すには、存在をイデアとして解釈するのではなく、隠れなきあらわれとして、つまりアレーテイアとして捉えなおすことが肝要だということになる。そのためには、プラトンの考え方を制約していた人間中心的な見方を乗り越えなくてはならない。プラトンによって打ち立てられた形而上学つまり西洋哲学は、この人間主義によって毒されている、というのがハイデガーの基本スタンスだ。ハイデガーがこの論文を、「ヒューマニズムについての書簡」とあわせて刊行したことの意味は、そこにある。「ヒューマニズム書簡」もまた、哲学思想における人間中心的な見方に鋭い批判を加えたものなのである。

   





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