みみずくは黄昏に飛び立つ:村上春樹への川上未映子によるインタビュー

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「みみずくは黄昏に飛び立つ」は、女性作家である川上未映子による村上春樹へのインタビューである。「騎士団長殺し」の執筆前後になされたということもあり、「騎士団長殺し」についての舞台裏的な話が多い。タイトルに出てくるみみずくにしてからが、「騎士団長殺し」の中に出てくるキャラクターだ。そのみみずくが黄昏に飛び立つというと、ヘーゲルの有名な言葉「ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ」を想起するが、ミネルヴァの梟は哲学を体現して飛び立つのに対して、村上のみみずくは物語を抱えて飛び立つのだそうだ。

このインタビュー、それは対話と言ってよいのだが、その対話の中で村上は自分の執筆姿勢について率直に語っている。村上はもともと自分の執筆動機みたいなものを語るのが好きだったと言えるのだが、この対話の中では相手が自分よりずっと若い女性であることもあってか、かなりうちとけた話し方をしている。その打ち解け方というのは、川上に対する村上の好意のようなものに由来しているようだ。なにしろこの対話を本として立ち上げるプロジェクトについて、村上自身がイニシャチブをとったらしいことからも、彼女に対する村上の好意のありようがわかる。

対話の中身は、これまで村上が折に触れて語ってきたことを繰り返したものが多い。自分の制作姿勢についていえば、村上は文体へのこだわりを改めて強調している。村上は言う、「何より大事なのは語り口、小説で言えば文体です。信頼感とか、親しみとか、そういうものを生み出すのは、多くの場合文体です。語り口、文体が人を引きつけなければ、物語は成り立たない。内容ももちろん大事だけど、まず語り口に魅力がなければ、人は耳を傾けてくれません・・・それが僕の『洞窟スタイル』だから」

村上が自分の小説の語り口を「洞窟スタイル」と名付けるのは、人類の物語がまず洞窟で語られたことを自覚的に踏まえているのだろう。そこまで大袈裟に言わなくても、日本人にとって語りの伝統のもつ重さを自覚しているのだと思う。「語り」にあっては、なによりもものを言うのは、「語り口」である。その語り口の伝統を自分は踏まえているのだという村上の意気込みがこの言葉からは伝わってくる。

そこでその語り口、つまり文体であるが、自分の文章は基本的にはリアリズムの文章だと言っている。そのリアリズムの文章を以て非リアリズムの物語を書く。このように、「ある程度の精度を持つリアリズム文体の上に、物語の『ぶっ飛び性』を重ねると、ものすごく面白い効果が出るんだということが、そこであらためてわかったんです」と村上は言う。たしかに非リアリズムの言葉を以て非リアリズムの物語を書いたら、収集のつかない混乱が生まれるだけだろう。

また物語が語るところの内容についていえば、村上はよく全体の構想を持たずに物語にとりかかり、書きながら考え、考えながら先に進むという言い方をするが、この対談でもそのことを改めて強調している。「騎士団長殺し」についても、騎士団長殺しの絵と上田秋成の小説「二世の契り」をプロットの骨格というか物語展開のきっかけにしようという目論見はあったが、はじめから全体構想を持っていたわけではなかった。全体構想は小説を書き進む課程で自然に固まってきたと言っている。村上としては、小説家というのは、描き手であるのは違いないが、しかしその描く内容は、いわば天から授けられるというような受け止め方をしているようである。

「考える」と言ったが、それはなかば比喩的な言い方で、村上は理屈のようなものを小説の世界に持ち込むことは絶対してはいけないと言っている。理屈というのは、頭で解釈できるもののことだが、そんなものを書いたってしょうがない。「解釈できないからこそ物語になるんであって、これはこういう意味があると思う、って作者がいちいちパッケージをほどいていたら、そんなの面白くも何ともない。読者はがっかりしてしまいます。作者にもよくわかっていないからこそ、読者一人ひとりの中で意味が自由に膨らんでいくんだと僕はいつも思っている」と言うのである。

そんなわけであるから村上は、批評というものについては、その存在意義を否定するわけではないが、あまりとらわれない、というかほとんどの場合無視していると言う。物語には、作者自身にもわからないようなところがあり、したがって読者の数ほど多くの読み方がある。その読み方の一つとして批評を書くのはかまわないが、それを人に押しつけるようなことはやめた方がよい、というわけである。批評家の中には、自分の読み方を、ほかならぬ作者自身にも強要するような人もいるから、村上のこの言葉には影があると言ってよい。

ところでこの小説の中には、重要なキーワードとしてイデアとメタファーという言葉が出てくる。この言葉をどう受け取るかによって、この小説の読み方にも幅が出てくると筆者などは思い、その思いを文章にしたこともあった。川上も筆者と同じようにこの言葉に特別の意味をかぎ取ったようで、この言葉に厳密に向かい合うことができるように、わざわざプラトンの「国家論」をひもといたということだが、この言葉を小説の中に持ち込んだ当の村上は、別にそんなに厳密な意味合いでこの言葉を使ったわけではないと言う。「プラトンのイデアとは無関係です。ただイデアという言葉を借りただけ。言葉の響きが好きだったから。だいたい騎士団長が『あたしはイデアだ』とみずから名乗っただけのことですよね。彼が本物のイデアかどうか、そんなことは誰にもわからない」

いかにも村上らしい率直さである。

川上は女性としての立ち位置から、村上の小説の中での女性の描き方にこだわりを見せてもいる。村上自身は意識して男女を描きわけているわけだはないと言うのだが、女性の川上にとっては、村上にも女性の描き方のクセのようなものが感じられると言う。川上が一番高く評価するのは「ねむり」という短編小説だ。この作品について川上は、「本当にすばらしい作品です・・・女性であるわたしが、テキストの中で『新しい女性』を発見した喜びがありました。それが男性作家の手によってなされたということが驚きだったし、本当にすばらしい体験でした」と言うのだが、男である筆者にはこの小説がそんなに素晴らしいとは思えなかった。この小説は「TVピープル」の中に収録されているのだが、この短編集について筆者がかつて書いた読後感の中では、この小説についてはほとんど言及していない。印象が薄かったのだと思う。そのへんはやはり、男女の感性の相違に根ざすことなのだろうか。

対話の最後で川上は、村上が毎年ノーベル賞候補に擬せられながら受賞できていないことに触れて次のように水を向けている。「『もし村上春樹がノーベル賞を欲しいと思うのなら、ポリティカルなことを明確に書く必要がある』というような意見があるんですよ。基本的な賞の性格がそうなんだから、と。それからノーベル賞は別としても、さっきもいいましたように、作家というものは、ポリティカルじゃないにしても、実際の事件とか、社会的な出来事を題材に小説を書くべきだ、みたいな見方もある・・・が、いわゆるポリティカルなものとは線を引かれますよね。政治的なメッセージになってはならない、と」

これに対して村上は、「でも僕の書いていることは、けっこうポリティカルだと自分自身は思ってるんですけどね」と答え、その一例として、「騎士団長殺し」の中で南京虐殺の問題を取り上げたことを挙げているが、あまり突っ込んだ議論は回避しているような姿勢が伝わってくる。作家の使命は物語をつむぐことであって、それは時代を超越した事柄なのであり、時代に直接コミットすることは、作家の仕事ではない、と村上は正直なところで思っているようである。







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