川上未映子「乳と卵」

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村上春樹は川上未映子が気に入ったらしく、彼女との対談集(「みみずくは黄昏に飛び立つ」)では腹蔵のない会話を楽しんでいるのが伝わってきたが、村上はまた川上の小説家としての才能にも敬意を表していて、その理由として川上の文体の独自さをあげていた。村上自身、作家の才能は文体によってはかられると考えており、また作品の価値も文体によって左右されると思っているようなので、ユニークで迫力のある文体を駆使する川上を高く評価するというわけであろう。

筆者も小説を読む楽しみに文体が大きくかかわると日頃から考えておることもあって、村上が褒める川上の文体とその文体に乗って展開される彼女の小説の世界がどのようなものか、それが知りたくなって、あるいは文体の快楽を味わいたいと思って、彼女の小説「乳と卵」をひもといた次第だった。と言うのもこの小説は、川上の文体の中でもとびきりユニークな文体で書かれていると、村上も言っていたし、川上自身もそれを認めていたからだった。

たしかにユニークな文体だ。息が長く文章がどこで切れるのかはっきりしない上に、話題がとりとめもなく広がっていって、一体何が言いたいのか途中でわからなくなるところが多い。しかもそれを関西弁でしゃべるので、というのは川上の文体は書き言葉ではなくしゃべり言葉をそのまま文字にしたものなので、これには谷崎潤一郎という大先輩の前例があるが(「卍」を中心とした関西弁小説)、谷崎はその文体を紫式部から学んだらしい。だから川上の文章にも紫式部の匂いが感じられるかというと、かならずしもそうではないようだ。紫式部は男性作家にも大きな影響を与えたが、それは紫式部が意外に男性的な面を持っていたことの現われであって、そのへんは徹底的に女性的であることにこだわっているらしい川上とは異なるところだ。川上はその女性らしい感性を以てこの小説を書き出す。こんな具合だ。

「巻子はわたしの姉であり緑子は巻子の娘であるから、緑子はわたしの姪であって、叔母であるわたしは未婚であり、そして緑子の父親である男と巻子は今から十年も前に別れているために、緑子は物心ついてから自分の父親と同居したこともなければ巻子があわせたという話も聞かぬから、父親の何らいっさいを知らんまま、まあそれがどうということもないけれど、そういうわけでわれわれは今現在おなじ苗字を名のっていて、普段は大阪に住むこの母子は、この夏の三日間を巻子の所望で東京のわたしのアパートで過ごすことになったわけであります」

この文章に感心なところがあるとすれば、たったこれだけの量で小説全体のプロットを過不足なく表現し得ているということだ。この小説は、三人の女たちが三日間の間に繰り広げる、あまり冴えないながらも、それなりに人生を考えさせるような出来事を描いているわけだ。登場人物は三人しか出てこず、その三人がそれぞれに自分なりの悩みを抱えており、したがってその悩みに応じて自分が生きる意味も考えざるを得ない。巻子の悩みは自分の乳房がぺたんこなことで、これをなんとか人並みにするために豊胸手術をしようと思っている。彼女が娘を連れて東京へ出てきた目的の一つは豊胸手術に関する情報収集をすることなのだ。

娘のほうは初潮を経験したばかりの年齢で、おそらく小学生だろうと思う。彼女は母親とのコミュニケーションがうまくとれず、面と向って話しかけられないので、自分の意思を筆談という形で伝えている。彼女は筆談のために文章を書くばかりでなく、自分を納得させるためも含めて、考えることの一つの方法として文章を書くのが好きだ。その文章はおおむね女性の生殖能力にかかわることがら、つまり卵子とか妊娠とかいうことだ。この小説の冒頭は、卵子についての彼女の書き付けから始まるのだ。こんな具合だ。「卵子というのは卵細胞って名前で呼ぶのがほんとうで、ならばなぜ子、という字がつくのか、っていうのは、精子、という言葉にあわせて子、をつけてるだけなのです」

この文章からは、緑子という名前のこの女の子が、なかなか論理的な考えをする子どもだということが伝わってくる。実際この小説に出てくる三人の女性たちの中では、まだ小学生の緑子がいちばん冷めていて、ほかの二人の大人たちはどことなく頼りない感じがする。巻子はともかく、語り手であるところの巻子の妹であるわたしも投げやりに生きているという感じが伝わってくる。

題名にある「乳と卵」というのは、母親の巻子の自分自身の乳房へのこだわりと、その娘の生殖への興味をあらわしているということが浮かび上がってくる。語り手のわたしは、生理でパンツが汚れたことがきっかけで卵子のことを考えるようになるし、姉が貧相な胸に絶望しているのを見て、自分自身の胸も姉同様貧相なことに気づいて、姉の気持ちがわかったようなわかっていないような気持ちにもなる。ともあれ乳と卵というこの二つのテーマは、小説の最後の場面でドラスティックな形で統一される。それは娘の緑子が突然賞味期限の迫った卵を自分の頭にぶつける仕草をして、母親の豊胸手術へ抗議の意思を示したことによって表現される。この劇的でかつ人間的な仕草を通じて、母親は娘との連帯を取り戻し、自分の豊胸コンプレックスを乗り越えることができるのだ。

小説のいたるところで気の利いた言葉のやりとりが展開される。そこがこの小説を厚みのあるものにしている。もっとも気を引くのは貧相な胸をめぐるものだ。女が貧相な胸にこだわるのは男権思想に屈服しているためだという考えをするものがいるが、自分はそんなことで自分の胸にこだわっているわけではない、「なんだって単純なこのこれここについているわたしの胸をわたしが大きくしたいっていうこの単純な願望をなんでそんな見たことも触ったこともない男性精神とかってものに結びつけようとするわけ? もしその、男性主義だっけ、男根精神だっけかが、あなたの云うとおりにあるんだとしてもよ、わたしがそれを経由しているんならあなたのその考えだって男性精神ってものを経由してるってことになるんじゃないの」、こう言って巻子は女としての自分が胸にこだわるのは自然なことだと主張するのだ。

娘の緑子のほうは、男性主義とか男根精神とは関係ない理由から母親の豊胸手術に反対だ。自然じゃないし、痛いだろうし、そんなことをして何がよいのか全く理解できないというわけだ。一方妹であるわたしのほうは、姉のコンプレックスがわからないでもない。とりわけ銭湯のなかで女性たちの様々な胸の形を見た後では、蚊に刺された痕跡ほどの膨らみしかない姉の胸がかわいそうにも思われるのだ。その姉とほとんど同じものが妹のわたしにもついているのだ。と言って、わたしとしては自分の胸にコンプレックスをもつ理由はない。

わたしがコンプレックスを持っているのは、まだ男がいないことだ。生理のたびに血が無駄に流されることにわたしは敗北感のようなものを感じる。その敗北感は次のような言葉で表現される。「ああナプキンは股の布団であるな、を思いながら、体はぼんやり部屋の布団の中に戻り、半分が眠りで白い顔のどこかで、あと何回、ここに生理が来るのかを考え、それから、今月も受精は叶いませんでした、という言葉というかせりふというか漫画のふきだしのような意味合いが暗闇にふわりと浮かんでくるのでそれを見た」

こんなわけでこの小説は、乳房と生理という女特有のことがらを材料に使って、女たちに特有の考え方というか感じ方というか生き方のようなものを淡々と描き出していくのである。






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