柿本人麻呂歌集正述心緒の歌:万葉集を読む

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万葉集巻十一及び十二は、それぞれ柿本人麻呂歌集からの相聞歌を収めている。それらは正述心緒及び寄物陳思に大別される。この二つの分類は、柿本人麻呂歌集以外の歌にも適用され、それぞれの巻で人麻呂歌集に続いて載せられている。正述心緒とは、恋の思いをストレートに表白した歌であり、寄物陳思とは物に寄せて恋の思いを詠ったものである。ここでは、巻十一に収められた正述心緒の歌を鑑賞してみたい。

  たらちねの母が手離れかくばかりすべなきことはいまだせなくに(2368) 
母の手を離れて物心がついて以来、こんなにつらい思いをしたことはありませんでした、という趣旨。恋の思いに焦がれる女心を詠んだものだろうと思う。すべなきこと、というのは、どうしてよいかわからぬという気持ちを詠んだ言葉で、事態の切迫を感じさせるものだ。

  人の寝る味寐は寝ずてはしきやし君が目すらを欲りし嘆かむ(2369) 
常の人のように安らかに眠ることができず、恋しいあなたの目をひたすら見たいと思い嘆いているこのごろです、という趣旨で、これも恋する人に思い焦がれる女の気持を詠ったものだろう。

  よしゑやし来まさぬ君を何せむにいとはず我れは恋ひつつ居らむ(2378) 
もうどうでもよいのです、来てくれないあなたをどうしてもわたしは恋いつついないではおれないのです、と言う趣旨。恋のあまりに自暴自棄になった女心を詠ったものだろう。よしゑやし、を冒頭にもってくることで、気持ちの切迫感が一層高まっている。

  うち日さす宮道を人は満ち行けど我が思ふ君はただひとりのみ(2382) 
日に照らされた都の大通りを大勢の人があふれるように歩いていますけれど、私が思う人はそのなかのただ一人なのです、と言う趣旨。自分の恋の掛買いのなさを相手に訴えているものと見える。これもやはり女の歌と受け取ったほうが、味わいが深くなると思う。

  朝影に我が身はなりぬ玉かきるほのかに見えて去にし子ゆゑに(2394) 
朝影のようにはかない身にわたしはなってしまった、それはほのかに見えたまま去ってしまった女への思いのためだ、という趣旨。朝影は、早朝に生じる現象で、弱い日の光のために、影がやせ細ってみえるもの。その陰に自分を重ね合わせるのは、女と一夜を過ごして朝早く去ってゆくという当時の風習を物語っている。たまかぎる、はほのかの枕詞、玉のひかりのほのかなさまを言う。

  行き行きて逢はぬ妹ゆゑひさかたの天露霜に濡れにけるかも(2395) 
いくら通っても決して逢えない女のために、自分はこのように夜露に濡れてしまったのだ、と言う趣旨。これは、逢ってくれない女へのいやまさる思いを吐露した男の歌だろう。なお、斎藤茂吉は、行き行きて、を行けど行けど、と訓している。そのほうが、いくら行っても、という気持ちが強く伝わる。

  赤らひく肌も触れずて寐ぬれども心を異には我が思はなくに(2399) 
お前のほんのりと赤い肌に触れもせずに一人寝をしてしまったが、心ではお前を思っているのだ、という趣旨。女と逢ったのに一緒に寝なかったのか、それとも約束をたがえて逢わなかったのか、どちらにしても男の弁明のように聞こえる。あるいはそうではなく、自分を抱いてくれない男を、女が詰っているとする解釈もあるが、それはちょっと苦しいのではないか。

  恋ひ死なば恋ひも死ねとか我妹子が我家の門を過ぎて行くらむ(2401) 
恋焦がれて死ぬというのなら勝手に死ねというのか、我が恋する女が我が家の前を通り過ぎてゆくのは、と言う趣旨。せっかく自分の家の近くに来たのに、会わずに通り過ぎてしまった女への恨み心を詠ったものだ。随分とあけすけな歌である。

  恋ふること慰めかねて出でて行けば山を川をも知らず来にけり(2414)
恋する心を慰めかねて出てきてしまったところ、山も川も目に入らないほど、気持ちが乱れたことよ、と言う趣旨。前半のいでてと、後半の来にけりとが調和しないようにも見えて、その分稚拙さを感じさせるが、ひたすらな思いが素直にあらわれていて、人の心に訴えるものがある。






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