西郷南洲遺訓を読む

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岩波文庫から出ている「西郷南洲遺訓」は、山田済斎が西郷隆盛に関連する資料六篇を集めて昭和13年に刊行したものを、同16年に岩波文庫に加えたものである。「西郷南洲遺訓」を中心として、「手抄言志録」、「遺教」、「遺編」、「遺牘」、「逸話」からなる。

「西郷南洲遺訓」は、明治三年に庄内藩の藩士数名が鹿児島に赴き西郷から直に聞いた話をまとめたものである。これに先立ち庄内藩は、西郷を大将とする官軍の東北征伐の際に、てっきり官軍から滅ぼされると覚悟していたところ(庄内藩は薩摩藩邸焼き討ちの中心部隊だったから)、思わず西郷によって許された。それ以来庄内藩は西郷を恩人として敬慕したのであったが、その敬慕心のあまりわざわざ鹿児島まで西郷を訪ね、西郷の生き方というか、身の処し方・物の考え方について親しく教えを請うたのであった。その時の記録をまとめ「西郷翁遺訓」として明治23年に刊行したものが、今日「西郷南洲遺訓」と呼ばれるものである。

このいきさつからわかるように、遺訓とは言っても、西郷本人が遺言を目的として書き記したものではない。庄内藩士たちが西郷から親しく聞いた話を、西郷の死後刊行するにあたり、敬慕せる西郷の遺徳をしのんで遺訓と題したものである。西郷自身は遺訓という言葉には失笑したことであろう。というのも西郷は、「言志録」の中の次の詞を常に座右の銘としていたからである。「聖人は平生の言動一として訓にあらざるは無し。而て歾するに臨みて、未だ必しも遺訓を為らず。死生を視ること真に昼夜の如し」

「言志録」とは、佐藤一斎の「言志四録」から、西郷自ら百余りの詞を取り出して編纂したもので、西郷はこれを常に座右において教訓としていた。したがって西郷自身の言葉ではないが、西郷が教訓としたことを以て、西郷の思想の一端に触れることを得べきものだと言える。佐藤一斎は儒学者で、漢学の総帥として主として朱子学を講じたが、傍ら陽明学も学んだ。彼の著した著作「言志四録」は、その陽明学的な要素が強く現われているものである。自らも陽明学に親しんだ西郷は、そんなところに心を動かされたものと見える。

「遺教」以下の四編は、西郷の書簡とか西郷にまつわる逸話などを集めたもので、書簡を除いては西郷自ら著したものではない。その書簡も、西郷自身の思想を開陳したものは少なく、身辺の事柄を話題にしたものが多い。ひとつ面白いのは、父親の借財を返済したことに触れた書簡で、西郷がいかに父親の残した負債に気を使っていたかが伺われる。

さて西郷は陽明学に心を動かされていたと書いたが、この書物の編者山田済斎も陽明学者であった。陽明学は幕末に流行を生んだ。その趣旨は人間の自発的な働きを重視することにあり、自然の摂理を重視した朱子学に対して人間の自由を重んじた点に特徴がある。幕末近くになって徳川の封建体制が揺るぎ出すと、それを改革しようとする動きが当然湧き上がってくるが、陽明学はそうした動きに一定の指針を与えるものだったわけである。その指針は必ずしも適切なものとはならず、大塩平八郎のような破れかぶれの行動を引き起こしもしたのだったが、人々に改革への機運を促すことについては強力な動因の役目を果たしたと言えるのではないか。西郷もまた、そのような改革の志を陽明学を通じて学び取ったというふうに、陽明学者である山田済斎は見ているようである。

「遺訓」に盛られた西郷の言葉にはそうした陽明学的な考え方が強くこだましている。それをひとことで言い表すことはむつかしいが、西郷の場合の陽明学的な精神とは、己を没却して公のためにつくせ、ということだったようである。西郷は言う、「道は天地自然の道なるゆえ、講学の道は啓天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始せよ」と。西郷によれば、「己を愛するは善からぬことの第一也」ということになる。そればこそ己を捨てることのできる人は大成できる。「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也。此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」

西郷がいまだに多くの日本人から敬愛されているのは、この無私の精神のためではないか。彼ほど己を没却して公のために尽くしたものはかつていなかったし、また彼以上に他人の前で謙虚だった人もいなかったのではないか。その謙虚さは、次のような逸話からもうかがえる。西郷が二度目の追放処分を受けて徳の島に流されたとき、島の老婆から次のように言われた。「二度も三度も遠島せらるるを聞きし例なし。貴方は二度の遠島と聞く。さても怠惰者かな、篤と改心して、一日も早く赦免せらるる様にせよ」。この老婆の言葉に西郷は、「顔を赤らめ其好意を謝した」ということである。こんな逸話にも、西郷の謙虚な性格が現われていると言えよう。

日本を憂え、維新を領導した西郷は、日本の独立に深い思いを抱いていた。その思いは次のような言葉からもうかがわれる。「正道を踏み国を以て斃るるの精神無くば、外国交際は全かる可からず。彼の強大に委縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に順従する時は、侮蔑を招き、好親却て破れ、終に彼の制を受るに至らん」。

西郷が今の日本の為政者たちのしていることを見ればどのように思うか。それはともかく、西郷はまた詩をよくした。「遺編」は西郷の詩を収めたものだが、その中で最も興味深いのは、僧月照の十三回忌に月照をしのんで詠んだ七言絶句である。曰く、
  相約投淵無後先 豈図波上再生縁 回頭十有余年夢 空隔幽明哭墓前
西郷は月照と一緒に死のうとして自分だけ生き残ってしまったことを、生涯悔やんでいたのである。





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