すみだ川の季節感:荷風の世界

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荷風の小説「すみだ川」は、盂蘭盆会が過ぎたばかりの八月なかばの夏の終わりに始まり、翌年の春と夏の境目で終わっている。一年足らずの期間だが、その間に季節は確実に巡り行く。その季節の巡り行きに重ね合わせるように、物語はあわただしく進行してゆく。その物語とは、一人の青年の切ない恋が破れる話だ。恋に破れた青年が、自暴自棄で自分の命を縮めるところで小説は終わっている。

それゆえこの小説は、季節の移り変わりに重ね合わせて、人間の運命の転変を語った話だといってよい。荷風という作家は、非常に季節に敏感なところがあって、濃密な自然描写に季節感を込めて、物語に色を添えるのを好んだ。人間というものは、自然の一部として自然のただなかに生きているのであり、その自然、というのはつまり日本の自然という意味だが、その日本の自然に季節の区分がある以上、人間の営みも季節感によって彩られるのは当然のことだ。だから、小説の中でもとりわけ日本的の小説たるべきものは、季節感を盛り込んだものであらねばならない、というのが荷風の信念だった。

日本という国は単に季節感が豊かなばかりではない。どんなところにも季節に合わせた年中行事のようなものがあって、それがまた否応なく季節感に色を添えて、人々の情感を高める。荷風の小説世界は、こうした人間社会の営みに季節感を絡み合わせて情緒豊かな雰囲気を醸し出してゆくのである。荷風の文学には乾いたところがあるとよく指摘されるが、それは人間の心理描写について言えることで、季節を前面に押し出した小説の道具立てに着目すれば、非常に情緒的と言えるのである。

季節を描写する荷風の筆づかいはしかし、そんなにくだくだしくはない。さらりと触れて、季節の移り変わりを読者にそれとなく感じさせる程度である。トルストイをはじめ、当時人気のあった西洋の小説が、季節にしろ人間の言動にしろ、とかく微細な描写を心掛けているのに比べればあっさりすぎるくらいである。それでもなお、季節を十分に感じさせる。その辺は、日本の文学の伝統を踏まえているように見える。日本の文学とは、そもそも季節感を織り込んだものだから、人々は季節感を約束事のように前提とし、わざわざ微細な描写がなくとも、季節を感じさせるようにできているのである。

小説はまず、夏の終わりを告げることから始まる。冒頭の第二段落は次のように書かれている。「朝夕がいくらか涼しく楽になったかと思うとともに大変日が短くなって来た。朝顔の花が日ごとに小さくなり、西日が燃える焔のように狭い家中に差し込んでくる時分になると鳴きしきる蝉の声が一きわ耳立ってせわしなく聞こえる。八月もいつか半ば過ぎてしまったのである」

荷風は、夏の終わりを、日が短くなったことや、朝顔の花が小さくなったことや、蝉の声がひときわせわしくなったことで表現している。日本の文学の伝統の中では、秋の訪れはまず風によってほのめかされたものだが、荷風はもっと即物的に表現している。その辺は荷風の荷風らしいところなのだろう。

夏が終わりの合図を送るのと並行するように秋が忍び寄ってきたかと思うと、あっというまに秋の深まりを感じさせる。そのへんの呼吸を荷風は次のように表現している。「初秋の黄昏は幕の下りるように早く夜に変った。流れる水がいやにまぶしく光り出して、渡し船に乗っている人の形をくっきりと墨絵のように黒く染め出した」。

これは、羅月が渡し船に乗って隅田川を渡るシーンである。ここでも風の冷たさには言及しないで、夜の幕が人の影を影絵のように見せることを通じて秋の深まりを表現している。荷風は、どちらかというと、視覚で感じ取るのが好きなタイプのようだ。

とはいえ、聴覚を強調することがないわけではない。次の描写などはその例だ。「日が恐ろしく早く暮れてしまうだけ、長い夜はすぐに寂々と更け渡って来て、夏ならば夕涼みの下駄の音に遮られてよくは聞こえない八時か九時の時の鐘が、まるで十二時のごとく静かにしてしまう。蟋蟀の声はいそがしい。燈火の色はいやに澄む。秋。ああ秋だ」

鐘の音と虫の声とで秋の深まりを表現しているわけだ。鐘の音は、荷風にとっては、季節感とは関係なく気になるものだったようで、小説の中ばかりでなく、日記の中でもこだわりを示している。

鐘の音と並んで荷風が強くこだわったものに月がある。ここでも、月が時によって季節を感じさせるところが出てくる。「月の出が夜ごとおそくなるにつれてその光はだんだん冴えて来た。河風の湿っぽさが次第に強く感じられて来て浴衣の肌がいやに薄寒くなった。月はやがて人の起きているころにはもうのぼらなくなった」

これは旧暦七月の満月を過ぎた時節の描写である。満月の頃の月は、夜の鳥羽口に東の空に上る。そして月が欠けてゆくにしたがって、上る時間が遅くなり、下弦の片割れ月のころには夜が明けてから出てくる。そんな月は無論肉眼では気が付かない。ここで言っているのは、満月から下弦の月に至る間のことであろう。いずれにしても月の動きによって季節の移ろいを表現しているわけである。

こうした描写を踏まえて荷風は、「今年も昨年と同じような寒い十二月がやって来るのである」と書き、季節が一気に真冬に向かうさまを描く。その真冬に主人公の青年はインフルエンザにかかり、正月いっぱい寝て過ごす。そして病床から出るころに春が訪れてくる。その辺を荷風は次のように書いている。「八幡様の境内に今日は朝から初午の太鼓が聞こえる。暖かい穏やかな午後の日光が一面にさし込む表の窓の障子には、折々軒を掠める小鳥の影が閃き、茶の間の隅の薄暗い仏壇の奥までが明るく見え、床の間の梅がもう散り始めた。春は締め切った家の中までも陽気に訪れて来たのである」

冬の描写があっさりとしているだけに、この春の描写は唐突な印象を与えないでもないが、それにしても春の陽気のはちきれるような明るさが伝わってくる文章である。こういう文章を書かせると、荷風の右に出るものはいないのではないか。

春が移ろうと夏がやってくる。春と夏の移り変わりは雨によって告げられる。梅雨がそれだ。荷風はこの小説の中で梅雨という言葉は使っていないが、梅雨が夏を呼ぶ合図だと言うことはほのめかしている。次の文章がそれである。「気候が夏の末から秋に移って行く時と同じよう、春の末から夏のはじめにかけては、折々大雨が降り続く」

面白いことに荷風は、日本の大雨は夏から秋への移行期に降る雨、いまでいえば秋の長雨が代表的なもので、春の終わりから夏への移行期に振る雨、つまり梅雨は秋の長雨の先取りのように見なしている。それはともかく、雨はうっとうしいもので、そのうっとうしさに同調するように、主人公の青年が命の危機に臨む。小説はそこで終わるのだが、そうはいっても、そこにはクライマックスとかドラマチックなキリとかいった趣はない。なんとなく終わってしまうという感じなのである。

これは小説としては、欠点と受け取れぬでもないが、しかしそれは小説の主人公を人間と考えるからそうなのであって、小説のほんとうの主人公を季節と考えれば、別に不都合なことはない。季節にはドラマチックな終わりはないからだ。






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