存在の住処としての言葉:ハイデガー「ヒューマニズムについて」

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ハイデガーの著作「ヒューマニズムについて」は、サルトルのヒューマニズムを批判しつつ、彼自身の存在論を展開する。それを単純化して言うと、人間が存在の根拠なのではなく、存在こそが人間の根拠ということである。このことをハイデガーは次のように表現する。「人間とは、むしろ、存在そのものによって、存在の真理のなかへと『投げ出され』ているのである。しかも、そのように『投げ出され』ているのは、人間が、そのようにして、存在へと身を開き-そこへと出で立ちながら、存在の真理を、損なわれないように守るためなのであり、こうしてその結果、存在の光りのなかで、存在者が、それがそれである存在者として、現出してくるようになるために、なのである」(渡辺二郎訳、以下同じ)

これを言い換えると、「人間とは、存在の真理を見守るべく、存在によって投げ出された存在の牧人である」ということになる。しからば、人間を投げ出したという当の存在とはどんなものか。これについては、ハイデガーは、必ずしも明確なイメージを示しているわけではない。存在の真理という言い方はするが、それは存在が自らを隠れなく示すという意味であって、その場合に自らを隠れなく示している存在そのものが、どのようなイメージで表象されるべきなのか、ハイデガーは明示しないのである。ただ、「存在は端的に超越者である」というのみである。

では、超越者とは何者なのか。ハイデガーは、存在者の存在という言い方もする。この場合の存在者の存在が超越者として考えられているわけであろう。だが、言葉でそう言われても、この存在者の存在がいかなるものなのか、明らかではない。カントのいうように、現象とその原因となる物自体を考えれば、存在者が現象に、存在が物自体に対応する、というふうにとらえられるのか。ハイデガーは、そのような議論の展開をしていないので、なんとも言えないが、存在者を現象として捉えてもいることから、その存在者の存在が超越者としての物自体だと捉えられなくもない。

ハイデガーはまた、言葉は存在の住処である、あるいは家である、とも言っている。「人間は、他の諸能力と並んで、そのほかにまた言葉をも所有している生きものにすぎぬのではない。むしろ、言葉は、存在の家であり、その家のなかに住みつつ、人間は、存在へと身を開き-そこへと出で立つのであり、その際に人間は、存在の真理を損なわれぬように守りながら、その存在の真理に帰属するという仕方を取るのである」(同上)

家というものは、人間を住まわせるためにある。そこで、言葉は存在の家であるという場合、言葉が家として存在を住まわせるということになる。存在が、家としての言葉に住み着く、というわけだ。だが、そう言うことで果たして、人は存在についての明確なイメージを得られるだろうか。現実の家に住むのがかならずしも人間ばかりではないように、言葉としての家に住むのも存在ばかりとはかぎらぬかもしれない。住んでいるのは幽霊かもしれない。だから、存在が家としての言葉に住み着くと言われても、存在がいかなるものなのか、明らかにはならないわけだ。

存在と言葉の関係について、ハイデガーはまた、思索は存在を言葉へともたらす、とも言っている。存在はそもそも人間の介在なしに家としての言葉に住み着いているのではなく、人間の思索を通じて言葉へもたらされると言いたいのだろうか。すると、人間が存在の根拠ではなく、存在こそが人間の根拠だとするハイデガーの考えに衝突することになるのではないか。

ハイデガーとしては、そうではなく、人間の思索は存在の根拠であるのではなく、存在を言葉へともたらす媒介者なのだと言いたいのかもしれない。どちらにしてもハイデガーは、言葉と存在との関係について、詳細な議論をしていないので、彼の真意はわからない。だが、彼に代わって忖度することはできよう。いま、それを行ってみたい。

ハイデガーは、人間がある具体的な存在者たとえば一本の樫の木を見て、それを樹木として認識する場合を取り上げ、実際に見ている樫の木は個別の存在者にすぎないが、人間がそれを樹木として認識するとき、あらゆる樹木について成り立つような真理を表現しているというふうに捉える。この場合に、個別具体的な存在者すべてについて成りたつような真理、この場合にはそれが樹木であるということ、それがその樹木の存在だということになる。この樹木という存在は、それ自体としては見えない。見えるのは個別具体的な存在者としての樫の木である。にもかかわらず人間が、その樫の木としての存在者を樹木としての存在ととらえるのは、どういうわけか。カントなら、人間の側にアプリオリに備わっているカテゴリーに、個別具体的な現象を当てはめる結果そういうことが起こるというところだろう。だがハイデガーはそうは言わないで、超越的な存在が個別具体的な存在者の根拠として、それらを現われしむるというふうに捉える。

この例から見えてくるのは、樫の木と樹木というものを並べてみた場合、樫の木は眼前に具体的な形をとって見えているのに対して、樹木というものは、あくまでも抽象的で媒介された概念だということである。そうした概念は、物体性を欠いているところから、超越的と呼ばれる。だが超越的なものは、それ自体では人間の目には見えないし、また思索の対象になることもない。それが思索の対象となるには、言葉という形をとらねばならない。言葉という形をとることではじめて、人間はそれらを思索することができる。何故なら、思索とは言葉を通じてなされるものだからだ。ハイデガーならそのことを、言葉が思索せしむると言うであろう。

それならいっそ、言葉は存在の住処であるというより、存在は言葉として存在する、と言ったほうが適切ではないのか。もしそうだとしたら、人間が存在の根拠ではなく、存在こそが人間の根拠だとするハイデガーの基本前提は、基盤があやうくなるのではないか。そうではないと言い切るためには、言葉もまた人間の存在以前に存在しているものだと言わずにはいられなくなるだろう。

  




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