「腕くらべ」に描かれた新橋の色街

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荷風の小説「腕くらべ」の舞台は新橋の色街である。新橋というと、今日ではJR線新橋駅の西側一帯をさしていうようになったが、この小説の中の新橋は、いまでいう銀座八丁目から五丁目あたりまでの一帯をさしていた。新橋の地名は、外堀にかかる橋からきたが、その橋の近くに東京で初めての鉄道の駅が出来て、それが新橋ステーションと呼ばれた。そのステーションの真ん前の大通り、これは従来の東海道の一部であるが、その通りを洋風に飾って新時代の目抜き通りに仕立て上げた。するとその目抜き通りの周辺に様々な業種の店が集まってきたが、なかでも芸を売る店の勢いがすさまじく、この一帯はあっというまに東京有数の色街になったというわけである。

その新橋の色街を、この小説は舞台にしているのである。主人公駒代が抱えられている置屋尾花家は金春通り(銀座通りの西側)にあり、駒代がよく出っ張る待合誼春亭は三原橋(銀座通りの東側)の付近にある。これを中心にして、いまの銀座の南半分が新橋の色街のエリアと言ってよい。小説のなかの駒代は、そのエリアの中を行ったり来たりするのである。

こんなわけで新橋の色街は東京の中では新興の色街であって、そこに生きる芸者たちにも時代の新しさを感じさせるようなところがある。時代の新しさは、女たちをも新しくする。駒代はそんな新しい女の一人として、徳川時代の娼女とは違った趣を見せるというふうに、荷風は彼女をはじめとした芸者たちの新しい生き方を描く。実際この小説の中で描かれている芸者たちは、みな計算高くてたくましく生きている。徳川時代の遊女たちのいじけたイメージは微塵もない。

新橋の色街の新興ぶりを、尾花家の主人呉山が回想する場面がある。彼が新橋にやってきたのは西南戦争の頃だったが、「その時分にゃ新橋といったらまず当今の山の手みたようなもんでしたね。芸者は何といっても柳橋が一でしたな。それから山谷堀、葭町、下谷の数寄屋町なんどという順取りですかな。赤坂なんざついこのごろまで蕎麦屋の二階へお座敷で来て、二貫も御祝儀を遣りゃすぐ転ぶってんで皆珍しがって出かけたもんでさ」

明治の初年に浅草橋がもっとも格の高い色街だったということは、成島柳北の「柳橋新誌」にもあるとおりだ。山谷堀とは吉原のことを指す。この小説の中でも、吉原は気安く遊べるところとして出てくる。葭町は日本橋の芳町のことで、ここも徳川時代からある色街だ。一時期は芝居小屋も栄えた。下谷の数寄屋町というのは、上野の山下から湯島天神にかけての一帯を言い、ここにも徳川時代から規模の大きな色街が展開していた。

新橋にはまた芝居小屋がいくつかできて、それが色街にいっそうの色気を添えた。歌舞伎座では新橋の芸者たちが集まって披露目を行うし、新富座では駒代の色である瀬川一糸が芝居をする。新富座は新富町にあったので、厳密には新橋とは言えないかもしれないが、まあ隣町のようなものだ。また小説の冒頭で駒代と吉岡が七年ぶりに出会うのは帝国劇場においてである。帝国劇場は、お堀端に面しており、これも新橋とは離れているが、歩いて行ける距離である。こんなわけで、新橋周辺には大きな芝居小屋が集まっており、そこが置屋や待合と相ともなってこの小説に色を添えているわけである。

色めく新橋と対照的なのが、呉山老人の友人たる小説家倉山が住む根岸である。根岸は徳川時代から浮世を離れた幽玄の地として文人墨客に愛されてきた。明治になってからも子規を始めとした多くの文人が住んだ。荷風自身はここに住んだことはないが、その風雅をこよなく愛していたようで、小説のなかでは根岸を理想郷のように描いている。たとえば次のような調子である。「鶺鴒や藪鶯の来るころにも植込みのかげには縞の股引はいた藪蚊の潜むかわり、池の水をば書斎の窓際へと小流れのように引き入れる風流も何のわけはなく、真菰花咲く夏の夕は簾の雨なす蛍を眺め、秋は机の頬杖に葦のそよぐ響き、居ながらにして水郷のさびしさを知る根岸の閑居。主人倉山南巣は早くも初老の年を越えてより朝夕眺め暮らす庭中の草木にもただ呆るるは月日のたつことの速さである」

この根岸の描写が出てくるのは、倉山老人の家の隣にある古家を、瀬川一糸が別荘に使っているからで、こうした何気ない細工を通じて、小説に話のつながりをつけるところに、荷風らしさがあらわれている。なお、この瀬川一糸という役者はいま売り出しの女方ということになっているが、瀬川といえば瀬川菊之丞というのが徳川時代から明治にかけての歌舞伎の女形の名跡で、写楽や豊国の浮世絵にも描かれたほどの人気者だった。この小説のなかでも、女方として人気を集めているということにしている。

新橋は色街であるから当然銭湯もある。この小説のなかでは呉山老人が朝風呂を浴びるところが描かれている。風呂に使っていい気持ちになった老人は言う。「湯は銭湯にかぎるね、便利なようだが家の風呂桶じゃ鼻歌も出ねえ」。たしかに内風呂の桶のなかでは鼻歌も出ないだろう。鼻歌はやはり大きな湯船でないと出るものではない。銭湯というのは、ただ湯をあびるだけではなく、鼻歌のひとつもうなって心身をリラックスする役目も果たしていたということがよくわかる描写だ。

おそらく荷風ほど銭湯へのこだわりを表に出した作家は珍しいのではないか。荷風は様々な小説のなかで、いろいろきっかけを作っては銭湯の湯につかる愉楽のようなものを表明している。これは日本文学ならではのことで、風呂、それも銭湯についてこだわりを以て描写するというのは、ほかの国では殆どないのではないか。

呉山老人は、家から使いにきた女中に濡れた体を拭かせている。そこには別に猥褻な感じはない。人に自分の裸を見せるばかりか、濡れたところを拭かせるというのは、今の時代では新婚間もない夫婦の間にしか見られなくなったが、この小説が舞台としている時代には、まだ普通に、ごく当たり前に行われていたということが伝わってくる。






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