学海先生の明治維新その二

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 あるとき小生は、英策を佐倉の小生の家に招いて酒を飲みながら語り明かしたことがあった。その家というのは、小生の一家が佐倉に引っ越してきたときに父が借りたもので、後に父はそれが気に入って買い取ったのだった。小生は結婚するまでその家で暮らしたが、結婚すると船橋でマンション暮らしを始め、またただ一人の妹も結婚して家を出たので、長い間両親だけで暮らしていた。その両親が昨年あいついで亡くなった後、小生はその家を売らずにそのままにしておき、時々息抜きを兼ねて風を入れるために訪れ、半ばは別荘のようにして使っていたのだった。
 その家は宮小路というところにある。摩賀多神社の前の狭い路地の突き当りに、小さな台地のようにせり出た土地があって、家はその台地の上にしがみつくようにして立っている。玄関がある北側は急な坂に面していて、西から南にかけて崖状になっており、そこに竹林が展開していた。ちょっとした疑似高台の竹の林に囲まれた家とでもいうのだろうか。なかなか風情を感じさせる家で、小生の父親が気に入ったのは無理もなかった。家は二十二三坪ほどの平屋で、天保時代に作られたというこじんまりしたものだった。この家に限らず、佐倉藩の武士の家はどれもこじんまりとしていたというが、とりわけ天保時代に作られたものは、折からの節倹主義の精神を反映してなかなか質素な家が多かったという。水野忠邦が提唱した天保改革の余波が下総の片田舎まで押し寄せてきたというわけであろう。
 玄関を入ると畳二畳分ほどの狭い板敷になっていて、その右側に四畳半の部屋、左側に台所を兼ねた居間があり、奥には南に面して八畳と六畳の座敷が隣り合っている。このこじんまりした家で、一家四人で暮らしていたのだった。小生が子どもの頃はまだどこの家でも子ども部屋などというものは持たず、子どもは親と同じ部屋に起居していたものだ。小生の場合には、玄関脇の四畳半を専用に割り当てられ、自分なりのプライバシーを楽しむことができた。
 その日小生が英策を招き入れた部屋は、南側に面した八畳の座敷だった。そこにお膳を置き、小生が作った手料理、といってもキュウリもみとかホウレン草のおしたしといったごく簡単なものしかなかったが、それをつまみにウィスキーを飲みながら、子どもの頃のこととか日頃心を捉われた雑念とか、そんなことを語り合ううちにも、依田学海のことも話題に取り上げたのだった。
 この夜に限らず、その頃の小生はこの佐倉の家で過ごすことが多かった。それにはちょっとした事情があった。夫である小生がさる婦人と不倫行為をしているのではないかと荊婦が疑い、それがもとで夫婦仲が気まずくなり、自分の家庭に居づらくなることが多くなって、そのたびに佐倉に避難することが増えたのだ。荊婦の疑念にまったく根拠がないわけではなかった。というのも小生はその頃ある婦人としばしば面会することがあり、そのことを荊婦に知られてしまったのだったが、その面会というのが、人をして疑念をさしはさましむることを回避できなかったのである。
 その婦人というのは小学校の同級生で、名をあかりさんと言った。小学生の頃のあかりさんは非常に利発な少女で、いつもクラスで女子生徒の代表者として振る舞っていた。子どもの頃のことだから、彼女の容姿の魅力までは目が届かなかったが、その利発そうな表情は強い印象となって、子どもながら小生の心をとらえたものだった。先ほども述べたように、小生には多少ませたところがあったので、利発そうな少女を見ると心を動かされたのである。そのあかりさんの思い出として残っているのは、あるとき彼女がもう一人の少女を伴なって小生の家を訪ねて来た時のことだ。その時小生は、学校の夏休みの行事で房州の保田海岸に行って帰ってきたばかりだったのだが、真夏の太陽光線に裸身をさらしたせいで全身に水ぶくれができてしまい、それがもとで熱まで出て、学校を休んで寝ていたのだった。そこで心配した担任の先生が利発なあかりさんに命じて、小生の様子を問わしめたのだった。先生があかりさんを派遣したのは、彼女の家が小生の家と近かったからだと思う。
 あかりさんは玄関からではなく、台所のほうから声をかけて来た。
「鬼貫くーん、具合はいかが?」
 するとたまたま台所に居合わせた小生の妹のさゆりが答えて、
「あかりちゃん、うちのおにいちゃん、ホタにいってホタホタなのよ」と言うのが聞こえて来た。あかりさんとさゆりとは、同じ町内ということもあって、日頃から親しいのであった。
 妹の声に続いて母の声が聞こえた。
「進一郎、あかりちゃんたちが来たよ、挨拶なさいな」
 だが小生は、子どもらしい羞恥心から女の子に挨拶するのをためらった。するとあかりさんは、小生の具合を確かめられたことで、それを先生に報告できることに安心したようで、それ以上は何も言わずに立ち去って行った。
 そのあかりさんと、正確には大人になったあかりさんと、小生が再会したのは、仕事を通じてだった。小生は東京都の教育委員会に奉職していたことがあって、その当時、高等学校のブロック単位の会議に赴くことがよくあった。そんな折、東部地区のブロック会議に臨んで意見交換をしたことがあったが、その会議が終わって帰ろうとするときに、ある女性から声をかけられた。それが大人になったあかりさんだったのだ。
「鬼貫君、ひさしぶりですね。私のことを覚えておいでですか?」
 そう言われるまでもなく、会議の最中から彼女のことは気になっていたのだった。名簿を見ると高島あかりとなっている。あかりさんの姓は上田だったが、結婚してこの姓になったのかもしれない。その顔つきには小学校時代の面影が強く残っている。またその豊満な胸は中学校時代に見かけたままのあのはちきれそうなエネルギーを感じさせた。彼女は性的に早熟な少女だったのだ。ともあれ小生はすっかり懐かしい気持ちになったのだったが、こちらから話しかけるかどうか迷っているところへ、彼女の方から話しかけてきたのだった。
 これがきっかけで彼女と会って話すことが重なった。彼女は中学校までは小生と同じ学校だったが、高校は違う学校に行き、大学では教育学を先行して、卒業後都立高校の教師になったということだった。一方小生のほうは、東京都の事務職員となり、教育委員会の仕事も担当したが、その際にたまたま彼女と再会できたというわけだった。彼女には女の子が一人いて、名前はひかりちゃんというそうである。あかりさんがひかりちゃんのお母さんになったわけだと言って、小生は彼女と一緒に笑ったものだった。
 あかりさんとの関係は、こそこそ隠れて逢うようなものではなかったが、かといって堂々とやれることでもなく、なんとなく会い続けているといった風情だった。おそらくあかりさんの結婚生活はうまくいっていないのだろう。それで幼友達とはいえ、妻帯者である小生と世間の誤解を招きかねないようなことを、ずるずると続けているのではないかと推し量られた。ともあれ、そんな我々の関係を変な風に受け取る者がいると見えて、その人物が我々のことを捻じ曲げて荊婦に伝えたらしいのだ。それ以来荊婦は夫である小生に悋気を以て接するようになったのである。
 こんなわけで小生は荊婦との間が気まずくなるたびに、佐倉の家に避難するようになったのだが、その頻度がますます激しくなっていった。そんな折に小生は英策を宮小路の家に招いてさまざまなことを腹蔵なく語り合ったのだった。
「お前はあかりさんとの間でもう男女の間柄になっているのかね?」
 小生の行く末を心配しているらしい英策は単刀直入な言い方をして小生の反省を促そうとした。もし小生が彼の案ずるとおりのことをしていたなら、思いとどまらせようと考えてでもいるのだろうか。でなければこんな言い方はしないはずだ。
「いや、男女の関係までは行っていないよ、ただの茶飲み友達だ」
「ただの茶飲み友達が世間の目を盗むようにしてコソコソ会うというのは自然じゃないな」
「俺は別に自然とか不自然とかを基準に世の中を渡っているわけじゃない。自分の気持に忠実に振る舞っているだけだ。ところがあかりさんは、子どもの頃からの付き合いもあり、気心が知れているので、会って話をするのが楽しい。お前さんと会って話をするのが楽しいのと同じさ。楽しさに男女の区別はない。だから男女が茶飲み話を楽しんでいるからと言って、それを下半身の関係に結びつけるのはゲスのやり方ではないかね?」
「おや、めずらしくムキになっているな。そのムキになっているところが怪しい。ただの茶飲み話の間柄なら、そんなにムキになることはないじゃないか?」
 そう英策は言って小生を責め立てるのだったが、その言い方には熱い友情が感じられもしたので、小生は腹をたてることもしなかった。
 




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