戦争と映画その四

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 イタリアの戦争映画:イタリアは敗戦国ではあるが、ドイツや日本とはかなり違った事情がある。ドイツと日本は、国家全体が敗者として裁かれたのであるが、イタリアの場合には、国内に反ファッショのレジスタンス勢力があって、それがムッソリーニの打倒に大きな役割を果たした。したがってイタリア人にとっての敗戦の意味は、ドイツ人や日本人とは違う、反ファッショ・レジスタンス勢力にとっては、ムッソリーニ政権の崩壊は、イタリアの敗戦ではなく、民主主義の勝利と言うことになり、その意味では、反ファッショの勝利なのである。イタリア人の中には、イタリアは実は敗戦国ではなく戦勝国だと主張するものもあるが、それは反ファッショが勝利したということに焦点を合わせた主張だ。

 戦火の彼方:イタリアの戦争をレジスタンスの立場から描いたのがロベルト・ロッセリーニである。これは1946年に公開されたが、連合軍がイタリア上陸後北上するのに、イタリア国内の反ファッショ勢力が呼応してファッショ勢力と戦うさまが描かれている。したがってこの映画では、敵はムッソリーニとその背後にいるドイツ軍であって、連合軍は味方という位置づけである。イタリア人のロッセリーニが、こういう映画を作ったのは、イタリアの民主主義勢力は戦争の敗者としてではなく、勝者として遇されるべきだとの強い思いを抱いていたからだと思われる。
 靴磨き:一方、ヴィットリオ・デ・シーカは、イタリアの敗戦を前提として受け止め、敗戦にともなう混乱と、未来への希望を淡々と描いた。なかでも「靴磨き」は、戦災孤児となった子供たちをテーマにしたものだが、この映画の中の戦災孤児たちは、援助すべき対象としてではなく、治安維持の対象となっている。日本でもいわつる浮浪児狩りが問題となったことがあるが、浮浪児狩りで集めた子供たちは、基本的には養護施設で育てた。ところがイタリアでは、そういうこどもたちを少年刑務所に押し込んで、犯罪者として取り扱ったわけである。イタリア人の冷酷さの一面があらわれたのだと思うが、少なくとも画面からはデ・シーカの怒りはあまり伝わってこない。それは「自転車泥棒」でも同じで、泥棒をせざるを得ない情状に追い込まれた人間への深い同情は感じられない。その辺は、溝口や小津など、日本の映画人とは大きく異なる姿勢を感じる。
 ロッセリーニとデ・シーカは、いわゆるイタリア・ネオレアリズムの旗手とされる。イタリアの戦争映画は彼らと結びついて記憶されるにとどまり、彼らがいなくなると、もはや戦争を真面目に取り上げる作家はいなくなってしまった。同じ敗戦国でも、日本とドイツが今日まで第二次大戦にこだわり続けているのと比較すると、イタリア人はドライである。彼らは、負けた戦争のことなどにいつまでもこだわるのはやめようと思っているらしいのである。

4 戦勝国(イギリス、フランス、ソ連ほか)
 イギリス:イギリス人はもともと、事件やイベントを大げさに取り上げない傾向があって、それは戦争に対する姿勢にもあらわれた。ほとんどの国が、戦意高揚映画を作って国民を戦争に動員しようとつとめたが、イギリス人はそうした戦意高揚映画を自分たちで作ることはなかった。そのかわりに、アメリカで作られた戦意高揚映画で間に合わせた。第二次大戦初期におけるイギリスの対独戦をテーマにしたアメリカ映画「ミニヴァー夫人」などはその代表的な例だ。
 イギリスにはチャーチルというユニークな指導者が大戦中に現れた。チャーチルはユーモアを交えながら、対枢軸国の戦争の意義を国民に説明し、国民はそれを聞いて戦意を高揚させられた。つまり、イギリス人は安上がりに戦争することを心得ていたわけだ。
 戦時中に戦意高揚映画を作らなかっただけではない。戦後も戦争を取り上げた作品はあまり作られなかった。あまり、というのは、筆者は戦後イギリス映画の事情に精通していないから言うので、少なくとも大家と呼ばれる映画作家たちは、戦争映画を作らなかったという意味である。
 戦場にかける橋:イギリスで本格的な戦争映画といえば、1957年公開の「戦場にかける橋」だ。監督はイギリス映画界の大家デヴィッド・リーン。この映画は、ビルマ戦線における、日本軍による英兵捕虜の虐待をテーマにしている。第二次大戦におけるイギリスの最大の敵はナチス・ドイツだったはずだが、そのドイツではなく日本が、イギリスの戦争映画では、もっとも憎むべき敵となったわけだ。イギリスは、ビルマ戦線だけではなく、ほうぼうで日本軍による捕虜虐待があったとして、戦後のBC級裁判で多くの日本軍人を裁いた。対独戦においては、英兵が捕虜になったこと自体がなかったのか、あるいはあっても虐待が起きなかったのか、ドイツ軍を道義的に責める映画は作っていないようだ。

 フランス:フランスもイギリス同様、戦時中に戦意高揚映画を作ることはなかったようで(例外として「天井桟敷の人々」をあげる人もいるが)、戦後もあまり戦争映画を作っていない。戦前からの大家といわれる作家たちは一人として戦争を取り上げなかったし、戦後世代の作家たちも、戦争をテーマにすることを避けた、というか戦争に関心を示さなかった。唯一の例外はレネ・クレマンだ。彼は、終戦直後に、対独レジスタンスを描いた「鉄路の戦い」を作っているし、また映画史上最高の反戦映画といわれる「禁じられた遊び」を作っている。
 鉄路の戦い:これはフランス国鉄労働者の対独レジスタンスをテーマにした映画だ。国鉄労組の依頼を受けて、労組の金で作られた。内容は、ノルマンディ作戦以降の西部戦線において、ドイツ軍の兵站を麻痺させるために、鉄道爆破に立ち上がる労働者たちを描いている。彼らは日頃からドイツ軍に対してサボタージュで応えていたが、それは命がけだった。サボタージュがばれると、有無をいわさず即時に射殺される。映画では、一列に並ばされて次々と銃弾を撃ち込まれる労働者たちがショッキングに描かれている。こうした描き方を通じて、フランスの左翼が戦後の政治に一定の影響力を確保しようとしたのだとする見解もある。
 リュシアンの青春:フランスにはいまわしい国民的な記憶がある。ドイツ占領下における対独協力者の存在だ。これは日本などは経験したことがないので実感ができないが、ヨーロッパのように敵同士が地続きの場合には、占領軍が現地人を使って統治することはよくあることで、そこに敵国の利害のために働く卑劣な人間たちが登場する余地がある。フランスの場合には、ドイツ占領下の対独協力者の存在が、いまわしい記憶となってフランス人ののどもとに突き刺さっていた。そのいまわしい記憶は長らく抑圧されていたのだが、1974年にルイ・マルがこの問題を正面から取り上げた映画を作って、フランス人たちの良心を目覚めさせた。この映画の中の少年は、日常的にはフランス人社会から疎外されている感情を持っている。それが対独協力者になることで、フランス人から畏怖されるようになり、それが自分の自尊心のよりどころとなる過程を描いている。彼は自尊心を満足させるだけではものたりず、ナチスの権力をかさに着て、ユダヤ人の家族を迫害し、その家の女性を強姦したりもする。なにがこの少年をここまで堕落させたのか、映画はそれを考えるよう観客に訴えかけている。理屈にうるさいフランス人らしい映画の作り方と言える。

 ソ連映画:ソ連にとって第二次世界大戦は対ナチス・ドイツの戦争だ。第二次世界大戦は6000万とも7000万ともいわれる死者を出したが、そのうち2000万人乃至2800万人がソ連から出た。実に世界中の戦争犠牲者のうち三分の一はソ連の人間だったわけだ。したがってこの戦争はソ連にとっては、国の存亡をかけた戦いだった。ロシア人はこの戦争を「大祖国戦争」と呼び、この戦争を勝ち抜くために、国民総動員で戦うことを求めた。ナチス・ドイツ敗北の要因は多数あげられるが、決定的な要因は、対ソ戦に敗れたことだろう。ノルマンディー上陸作戦は、それにとどめをさした。すくなくともロシア人はそのように思っている。 
 なお、ソ連の犠牲者数が確定していないのは、ユダヤ人の取扱いが明確でないためだと言われる。大戦中に死んだユダヤ人は一応600万人といわれているが、この数字にはウクライナなどソ連圏の数字が含まれていない可能性がある。ウクライナでは、大規模なユダヤ人殺害があったことが推定されているが、それが統計上の数字として確定していない。その結果、ソ連内での戦争犠牲者の数が確定しないのである。
 僕の村は戦場だった:これはタルコフスキーが1962年に作った映画で、対独戦の一こまを描いた作品だ。ドイツ軍によって家族を皆殺しにされた少年が、自ら志願して民兵となり、親の恨みを晴らすために戦うところを描いている。この少年はまだ十二三歳だが、当時はこうした年端の行かない少年や女性までもが対独戦に参加した。文字どおり国をあげての戦争だったわけだ。結局この少年は、ドイツ軍を偵察中に拘束され、殺されたということになっている。少年の勇敢な戦いぶりをとおして、祖国防衛戦争の大義を訴えた作品だと言える。ソ連では、これに類した作品が多く作られた。





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