学海先生の明治維新その七

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 いよいよ依田学海先生の史伝風小説に取り掛かるべきときがきた。史伝というからには一応出生から始めるのが穏当であろう。学海日録は安政三年先生満二十二歳の年から始められており、それ以前のことがらについての記載はないし、出生のことについても言及がない。そこでほかの資料にあたって知りえた限りのことを紹介したいと思う。
 学海先生は天保四年に佐倉藩士依田貞剛の次男として生まれた。依田氏の先祖は甲州から出た。いわゆる甲州武田武士のはしくれだ。武田氏の滅亡後甲州武士の多くが家康に召し抱えられたが、依田氏の先祖もその一人だった。その後、徳川家の家臣で譜代大名となった堀田氏に正俊の時代から仕えた。この依田氏の何代目かに学海先生の直接の先祖が別れ出た。父親の貞剛は比較的若くして亡くなり、家督は兄の貞幹が継いだ。この兄はなかなかできる人だったらしく、藩主の信任も厚かったようだ。学海が次男でありながら藩の要職に抜擢されたについては、この兄の存在が大いに働いているようである。
 佐倉藩は麻布日が窪の上屋敷、渋谷広尾の下屋敷のほか、家臣団を住まわせるための別邸を江戸のあちこちに持っていた。学海先生はそのうちのひとつ八丁堀別邸の長屋で生まれた。依田家は代々江戸詰めの家系だったようで、佐倉には屋敷を持たず、もっぱら江戸の藩邸住まいだったようだ。そんなわけで先生は佐倉藩士といいながら、江戸で生まれ江戸で育ち、二十代の半ばを過ぎるまで佐倉の地を踏んだことがなかったのである。
 先生の幼少時代のことについては、岩波版学海日禄第十一巻所載の「学海先生一代記」に手がかりとなる記述がある。これは先生自身が執筆したもので、己の半生をイラスト交じりに記しているものである。これによると幼少時には幸造と呼ばれ、元服後七郎と名乗ったようである。本名は朝宗といい、字を百川と称した。後に明治になって姓名が今日あるような形に統一された際、百川を本名とした。学海は号である。安政三年の日記にはすでに学海の名を冠しているので、かなり早い時期から用い始め生涯を通じて使い続けたということになる。
 学問は江戸の藩邸に設けられた藩校分校で基礎を授かった。「学海先生一代記」には数え年十五歳の年に卒業試験を受けたとある。一代記のイラストを見ると、時の藩主正睦の前でかしこまっている自分自身の姿が描かれており、ほほえましい感じが伝わってくる。
 その後藤森弘庵の私塾に入った。藤森弘庵は当時気鋭の儒学者で、勤皇思想の持主だった。代々仕えて来た小野藩のほか土浦藩にも仕えたが、過激な意見が災いして放逐され、弘化年間の末頃江戸へ出て私塾を開いた。この塾からは、鷲津綺堂、岸田吟香、川田甕江などが巣立った。先生自身もそうであるが、これらの人々には師である藤森弘庵の思想を己のものとして内面化した人が少ない。師の弘庵は勤皇の立場から日本の再統一をはかり諸外国の脅威に備えようという思想を抱いていたわけだが、弟子たちにはそうした思想もまた気概もあまり見られない。追々詳しく見ていきたいと思っているが、いずれ明らかになるように、学海先生には主義のために殉じるという気概はあまり見られないし、勤皇思想も強くはなく、どちらかというと古臭い封建藩閥意識にとらわれていた面が強い。
 幼少時の学海先生は、一代記も触れている通り、気の弱い子どもだった。一代記には
「依田の子はなぜあんなよはむしだろう。いくじのねへやつだ」と、ほかの子どもをして罵らせている。ところがその弱虫が、長ずるにつれ次第に強気になり、更には傍から傲慢と思われるほどに独りよがりの性格になっていった。同じ一代記には、藤森弘庵門下の同輩から
「依田氏の説はあまり奇論じゃ。あやまりじゃ」
「依田君ははなはだ強情でござる。われらの説はたしかにより所があります。これこの通でござるぞ」 と批判されている。それに対して先生は動じることなく
「君の御説は大に間違って居る。此方の論は只今申たとうり、けっしてまげることはなりませぬ」と反論している。それに対して弘庵師匠は
「両人ともしばらくおまちやれ。依田もあまり暴言がすぎる。さてさて例のくせがこまりものじゃて」とたしなめる有様である。
 こうした剛情とも倨傲とも言える先生の性格は、生涯を通じて変わることがなかった。そのせいで先生は年がら年じゅう人との間に軋轢を起こしては、自ら反省したり恥じ入ったりしている。先生の日録にはこうした反省や後悔の言葉が至る所に書かれているのである。
 ここで先生が反省というか自戒の念を込めた詩を一つ紹介しておこう。
  予性極奇偏  予の性奇偏を極め
  局量苦狭隘  局量にして狭隘に苦しむ
  人訽為傲慢  人訽りて傲慢と為し
  我独恃耿介  我独り耿介を恃む
  所以在於世  世に在る所以は
  常少可多恠  常に可少く恠多し
  為官僅十載  官為ること僅かに十載
  一朝俄摧敗  一朝俄かに摧敗す
  取友諱泛交  友を取るに泛交を諱み
  議論動禁断  議論動もすれば禁断
  諛言誓不発  諛言誓って発せず
  壮語筆端快  壮語して筆端快たり
  屋有万巻蔵  屋に万巻の蔵する有り
  家無一銭債  家に一銭の債無し
  饑寒幸相免  饑寒幸に相ひ免れ
  文字聊可売  文字聊か売るべし
  傲骨以寄此  傲骨以て此に寄せ
  再拝謝天地  再拝して天地に謝す
 性格が奇偏でために人との付き合いもうまくゆかず、それが災いして役所勤めもわずか十年ほどでくびになってしまったが、人にへつらいながら生きているよりは、自分の言いたいことを言って気楽に過ごす方がよい、さいわい文章で生活できるあてもあるから、今後も生き方を変えないでやっていくつもりだ。そんな気概がこの詩からは伝わってくる。実際学海先生は、長年勤めた政府の役職を罷免されるときにもつべこべ言わず、自分の命運をいさぎよく受け入れたのであった。
 この詩は墨水別墅雑録明治二十一年十二月三日の記事からとったものである。この雑録は、現存する形では明治十六年から始まっているので、およそ明治十年頃までをカバーする予定のこの小説では詳しく触れることがない。それでここに簡単に言及しておくと、この雑録は前にも言ったように、墨堤での別荘を舞台に繰り広げられた先生とその妾瑞香の実に人間臭い愛憎劇を記録したものである。先生はこの瑞香という妾を明治十年に下婢として雇い、当時本宅として住んでいた墨堤の家に入れた。その時瑞香はまだ十四歳の少女だった。その後都心に移居するにあたり、この家を別荘として残し、そこに引き続き瑞香を住まわせ、自分の妾としたのだった。その瑞香との愛憎こもごもの交流が雑録にはなまなましく描かれている。
 鴎外の小説ヰタセクスアリスのなかに、学海先生こと文潤先生にうやうやしく仕えている若い女性のことが出てきて、その女性を鴎外の分身たる主人公の少年が母親から先生のお妾さんだと教えられるところがある。その女性が瑞香だったのである。瑞香は本名を山崎せきといって、どういういきさつからかはわからないが、先生の家の下婢として入った。生来利発なので先生の細君からも気に入られ、その親族が連れ戻しに来た時には、細君のほうが引き留めるのに熱心なくらいであった。その少女を先生がいつから妾としたかは判然としないが、明治十三年の都心への移居に際して瑞香を家守としてわざわざそこに残し置いたことを考えると、その時にはすでに手をつけていたものと思われる。その時の瑞香は十七歳になっていた。
 その瑞香を先生は生涯愛したのであった。自分が死んだ後の彼女の身の振り方まで深刻に考えていたほどだ。彼女は利発であったから、先生は彼女に学問を教えてやった。先生の学問は無論漢学であったから、四書五経から始めて漢詩の作り方まで教えてやった。その甲斐があって彼女は漢詩を即興で作れるほどの教養ある女性になった。そんな彼女を先生は瑞香女史と呼んで、彼女の人格を尊重してやり、漢詩の贈答を行ったりして楽しんだ。才能豊かで美しいこの妾を、先生は友人たちに見せびらかすのが楽しみだった。
 話が脇へそれてしまったが、小生が言いたかったことは、先生にはかなり潔癖なところがあり、それが他人には傲慢と映り、その傲慢さが先生の世の中へのかかわりを多少特色あるものにしたということなのである。今後この小説のなかで先生の生きざまを丁寧に描写していきたいと思うが、その生きざまには孤高な人間に特有の潔さとともに、どこかずれているところがある。ところが、先生の場合にはこのずれが短所としてではなく、かえって長所として見えてくるというのが、小生のいつわらない感想なのである。
 なお、これは余談になるが、小生にも潔癖なところがあり、それがために世の中と衝突することが多かった。小生が学海先生に特別な親しみを覚えるのは、先生に自分と似たところを感じるからでもある。





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