ひかげの花:荷風の世界

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荷風は娼妓や売笑婦たちを賤業婦と呼んだが、彼が小説で描いたのは、一貫してこの賤業婦たちだった。日本を含めた世界の文学界で、生涯賤業婦だけを描き続けた小説家は荷風をおいてほかにはいないだろう。何が荷風を駆り立てて賤業婦の描写に向かわせたのか。それ自体が興味あるテーマと言えよう。

「すみだ川」では日本橋へ芸者として売られてゆく女、「腕くらべ」では新橋の芸者たちの生態を描いた荷風だが、その後不見転芸者といわれるような下等芸者へと対象の格を次第に落として行き、いわゆる赤線芸者とかカフェの女給とかを経て、この「日かげの花」では、街で男の袖を引くような私娼を描くに至った。しかも母子二代にわたって私娼に身を崩した女たちを、突き放した目で見つめている。なかなか隅に置けない、読みようによっては人の気を滅入らせるような小説だ。荷風の露悪趣味がもっとも露骨に現われた作品と言ってよい。

この小説において荷風は、一方では私娼に身を崩すような女にはもともとそうした素質があるので、それについて同情することはない、というスタンスをとっているように見える。他方では、その私娼を食い物にしてぬくぬくと生きている男がいるわけで、そうした男たちについては世の中の寄生虫であるかのような描き方をしつつも、必ずしも彼らを道徳的に非難するわけでもない。世間にはいろいろな生き方があるのだと突き放した見方をしている。

荷風は、女には賤業婦としてしか生きていけないタイプがいるのであって、彼女らがそういう境遇に身を落とすのには必然的な理由があると考えているようである。そういう女は、男との関係を通じてしか世間を見られないようにできていて、男がいないとどう生きてよいか、その指針がつかめない。要するに人間として自立できないわけで、生きてゆくためには男が欠かせない。しかも一人の男で我慢できないで、いろいろな男とさまざまな関係を持ちたがる。今日の日本では、女にそういう生き方のチャンスを与えてくれるのは、賤業婦という生き方しかない、どうもそのように荷風は考えているらしい。つまり賤業婦といえども、女にとっては立派な生き方の一つなのである。

この小説の主人公千代子もそういうタイプの女である。その千代子を重吉というふざけた男が食い物にする。この男は荷風の分身というわけでもないらしい。荷風自身は女好きで膨大な数の女を弄んだが、彼女らを食いものにした形跡はない。かえって旦那然として面倒を見てやっていたくらいだ。

この重吉という男は、どうも生活力に乏しいらしく、自力では生きていけないで、つねに女を食い物にして生きている。千代も食い物にされた女の一人だ。重吉はこの女をとことん食い物にしてやろうと思って、彼女を私娼として稼がせようとまで考える。その様子を荷風は次のように描写している。

「重吉は三四年この方カフェーの女給がすくなからぬ収益を得ていることを知って、お千代を女給にしたいと思っていた。しかし自分の口から先にそのことを言い出すのは、女から薄情だと思われる虞がある。女の口から言わせるようにしむけて、そして自分が止めるのも聴かず、女があえてするようになることを望んでいた」

つつもたせの心情がよくあらわれている一文である。女は男の希望通りにカフェーの女給から街娼となってそれなりに金を稼ぐようになる。彼らの間をつないでいるのは金だけだといってもよいから、女が金を稼げる間は、彼らの間は安定しているのである。事実小説の前半は、彼らが繰り広げる疑似夫婦的な関係が描かれている。というのも、彼らの間には痴情から発せられる肉の匂いが感じられないからだ。肉の匂いは女が外で金を払ってくれる男のためにとっておくとでもいうように。

こういうタイプのつつもたせは、古くから存在したのかどうか、その道に暗い筆者にはわからない。多分存在したのだろう。そして偽善的な理由から取り上げられることがなかったのだろう。荷風はそれを取り上げて、あまつさえ増幅させた形で世間に示したのではないか。

小説の後半は、お千代の娘もやはり私娼をやっていたことが明らかになり、母子二代にわたって私娼に身を落としたことを、母も子もあまり感じ入る様子もなく、それを自分の運命として受け入れるところを描いている。その描き方があまりにも淡々としているので、荷風には社会的な問題意識が欠落しているのではないかとの疑問を呼ぶところだ。

ともあれ、お千代が娘のことを知ったのは、警察の手入れで挙げられた私娼の名簿が新聞紙に乗ったことがきっかけだった。そのなかに、名前は実の娘のものとは違うが、偽名のつけかたといい、年齢と言い、ちょっとした手がかりから、お千代はこれが子供の頃に手放した実の娘に違いないと直感する。そこでなんとかして逢いたいという一心で、娘の手がかりを求めて奔走する。そのかいがあったりして、この母子は久しぶりに再会する。

小説はその再会の様子をくだくだしくは描かない。そのかわりに娘が自分の恩人に出したという手紙を引用して終わる。その手紙の中に、娘とお千代との関係とか、娘のこれまでの生き方とか、それについての自分自身の感慨とかが書かれている。それを読むと、この娘は自分の境遇を運命として受け入れて、それについて不平一つこぼすわけでもない。自分が私娼になったのは、なにも他人のせいではなく、自分自身の決断によるものだ、そういって娘は自分なりに、自分の生き方に責任を持ち、したがって母親を恨むということもない。

こんな具合にこの小説は、母子二代にわたって私娼に身を崩した女たちを描いているにかかわらず、その描き方には社会的な広がりは感じられないし、したがって批判的な視点も感じられない。かといって荷風はその生き方を積極的に擁護しているわけでもない。宙ぶらりんさを感じさせる描き方だ。

小説作法から見れば、この小説は前後で深刻な断絶が感じられて、全体の統一性がいちじるしく損なわれている。小説の終わり方もかなり唐突だ。というわけで、小説として成功しているとは言い難いようである。この小説のファンを自称する人はかなり多いのであるが。中には名作と言ってはばからぬ人もいる。






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