英語民間試験を大学入試に活用する意義

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2020年度から始まる新しい大学入学共通テストに民間試験を活用する方針が文科省から出されている。これに対しては、その公正さに各方面から疑問が出されている。時に国立大学関係者は強い疑問を抱いているようで、東京大学の如きはこれを合否判定に使わないという方針を出した。旗振り役の文科省としては、面子にもかかわることなので、なんとか協力させようと躍起になっているようだが、ことは学生たちの将来を左右する問題だ。慎重にやってもらいたいものだ。

東京大学始め、これに疑問を呈するものの主な根拠は、いくつもある民間試験はそれぞれ目的がバラバラで、いずれも日本の大学入試をイメージして作られていないということ、また、その実施時期も年間を通じてバラバラで、しかも何度でも受験することができるため、その受験機会をめぐって不公平が生じる可能性が高いというものだ。

大学入試はなにより公平を旨とするので、不公平な試験制度を合否判定の決め手として用いるのはフェアなやり方ではない。民間試験を受ける機会が多く、しかも経済的な負担に耐えられる子どもが有利になって、受験機会の少ない地方に住んでいる子どもや受験費用の負担に耐えられない子供が不利を被るのでは、大学入試そのものへの信頼を損ないかねない。

それと並んで重要なのは、民間試験には大学入学のために必要な学力を正確にはかるという目的が、そもそも欠けていることだ。たとえば最大手の一つであるTOEICの場合、その目的は「雇用者が移民労働者を主に単純労働に従事させるにあたり英語力の程度を見極めるのに適したテストである」と言うことである(雑誌「世界」四月号、中村和江の「世界は地下茎であり町内会である」)。他の民間試験も、教養や学力を図るよりも実用的な目的から作られている点ではこれと五十歩百歩らしい。

中には単純労働に従事しようとする移民労働者程度の英語力の判定でも、英語を話す能力を測る意義はあるのだから、それでもよいではかいといういう議論もあろう。特に旗振り役の文科省は、即戦力の人材を育てて欲しいという圧力にさらされているようだから、そういう言い訳をしたくなるのもわかる。しかし大学共通試験というのは、単に学生個々の能力を事後的に測るだけでなく、学生の勉学を事前に誘導する効果も持っている。だからTOEICのようなものを学力判定に用いられると、学生たちはもっぱら単純労働に従事する移民労働者並みの英語を話すように誘導されるわけだ。これが日本の将来にとっていいことなのか。よく考えることが必要だ。





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