醜聞:黒澤明

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1947年の「素晴らしき日曜日」以降、「酔いどれ天使」、「静かなる決闘」、「野良犬」といった具合に、黒澤明は日本の敗戦(及びそれによる日本社会の混迷)にこだわった映画を作り続けたが、1950年の「醜聞」に至って初めて、そうした呪縛のようなものから解放され、いわゆる映画らしい映画つくりに励むようになった。しかしこの映画でも、社会に対する批判的な視点が強く感じられることは、それまでの作品の延長上にある。

この映画のテーマは、カストリ雑誌と呼ばれるような金儲けだけを目的としたセンセーショナルで無責任なジャーナリズムに対する黒澤なりの怒りである。こうした似非ジャーナリズムは、いまでも写真週刊誌などを中心にして盛んであるが、戦争直後は、社会の混乱に乗じて、いかがわしい雑誌が横行し、あることないことを書き立てることで、世間の下世話な興味に取り入っていた。とりわけ潔癖で知られる黒澤は、そうしたジャーナリズムのあり方に日頃面白くないものを感じており、その鬱憤のようなものをこの映画で吐き出したということらしい。したがってこの映画は、黒澤の黒澤なりの正義感が盛り込まれた道徳的な作品だと言ってよい。

三船敏郎演じる青年画家と山口俶子演じる女性声楽家が、ひょんなことで雲取山の近くで知り合い、同じ旅館に宿泊した。そこで二人でくつろいでいるところを、胡散臭いカメラマンたちによって盗み撮りされてしまう。その写真を持ち込まれた雑誌社は、被写体が二人とも大物であることに驚喜し、この二人が山の中の温泉でしっとりと愛し合ったというような記事をでっち上げて売り出した。雑誌は大売れに売れ、世間の注目を浴びたが、身に覚えのないことを書かれた三船は激怒して、相手の雑誌社を告訴する決心をする。

その時に、志村喬演じる冴えない弁護士が弁護役を買って出るが、これが大した曲者で、被告人側の弁護まで引き受けようとする。一人の弁護士が被告・原告双方の代理人になることは、いまでは考えられないが、この当時には決して珍しいことではなかったらしい。というよりも、争いを適当なところで解決するのに、かえって重宝されもしたようだ。いまでも、不動産鑑定士の世界では、双方代理が珍しくないが、それが残っていられるのは、適当なところで妥協したがる日本人の性向に根差しているようだ。

志村弁護士は結局原告代理人に徹することになるが、すでに被告側から懐柔されている事情もあって、堂々たる弁護ができない。そんなわけで、公判は一方的に被告サイドで進められ、三船青年は敗訴間違いないという事態に追い詰められる。ところがそこに大転換が起こる。自分の悪行に嫌気をさした志村弁護士が、自分と被告との関係を洗いざらい告白し、被告の発表した記事には何らの信ぴょう性もないことを認めたのだ。その結果訴訟は三船らの勝利に終わる。

この大転換を三船青年と山口婦人は星が生まれたといって喜ぶ。星というのは、クリスマスツリーの飾り物のことで、弁護士の娘に三船青年がプレゼントしたのだったが、その星がどぶに反映して輝いている姿が、あたかも水のなかから本物の星が生まれてように見えたのだ。その娘は結核のために死んでしまった。彼女の死が父親の良心を目覚めさせ、法廷での大転換をもたらしたわけなのである。

弁護士を演じた志村が、破滅型の人間を心憎く演じていた。こういう人間はいまでもいるもので、自分ばかりか周囲のものまで破滅させるという疫病神のような存在だ。一方三船のほうは正義漢の塊のような純粋な男として描かれている。純粋と言うことは多少阿呆でもあるということだが、たしかにこの映画の中の三船には桃太郎のようなところがある。桃太郎はいうまでもなく、頭の少し足りない英雄である。

その三船が映画のなかで笑うことはないのだが、彼の相方である山口俶子のほうは、単に笑わないばかりか、常に引き締まった表情をしている。男というものは、女のこういう締まった顔を見るとついこじ開けて見たくなるもので、それは女とは常に男に向かって解放されていなければならないと言う先入見のなせるところである。ところがこの映画の中の山口俶子は、開けられるものなら開けてごらんさい、わたしは意地でも開けられたりしませんから、というような表情をしている。その表情がなんとも言えない。こういう表情が似合う女優は彼女の他にはいないのではないか。






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