永井荷風「浮沈」

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小説「浮沈」は、荷風散人晩年にして最後の傑作と言ってよい。この最後の傑作の中で荷風は、自分なりに抱いていた女性の理想像を描いた。その理想像を荷風は、作中人物越智をして語らせているが、この越智こそは荷風の分身と言ってよい。その分身が自分なりの女性の理想像を次のように表現するのである。

「彼女は過去の時代の人の持っていたものを今もなお失わずにいる。この点において彼女は私と同じく時代の落後者たるを免れない。さだ子が過去の世の美徳をなくなさぬかぎり二人の関係はこの後とも波乱なく平和に続いて行くであろう。わたしはそれを願っている」

これは小説の最後を飾る文章であり、越智の日記の一節ということになっている。その同じ日記の中で越智は、さだ子とは正反対の人々、つまり現代社会に生きる普通の男女を次のように描写して批判している。

「私の見るところ現代のわかき人たちは過去の人々のごとくに恋愛を要求していない。恋愛を重視していない。彼らが生くるためにぜひにも必要となすものは優越凌駕の観念である。強者たらんとする欲求である。これは男子のみではない。女子の要求するところもまた同じく、恋愛ではなくして虚栄である」

つまり荷風はこの作中人物の筆をかりて、現代社会においては男女ともに虚栄に生きて真の恋愛を忘れてしまっているが、彼が愛するさだ子はそうではない。彼女は真の恋愛を知っているし、それを求めているし、また自分を愛する人に自分をささげる気持ちを持っている。それは彼女が古き日本のよきところをまだ失わずに持っているからだと見る。つまり荷風の言う理想の女性とは古き日本をそのまま体現しているような女性のことなのだ。

荷風散人がいわゆる賤業婦と言われる女たちにこだわり、終生彼女たちをテーマにして小説を書いてきたのは、彼女たちのなかに古き日本が息づいていると感じたからだ。荷風の小説に描かれた女たちは、時には打算に走ることもあるが、それは生きるうえで迫られてのことであって、好んでそうするわけではない。余裕さえあれば彼女たちは男のために自分の身を投げ出すことができる。そこに虚栄や打算を超えた真っ正直な生き方を荷風は認め、それこそが古きよき日本を自ら体現した尊い女のあり方なのだと自得したに違いないのである。

その荷風がこの小説では、半ばは賤業婦、半ばはうぶな素人女であり、その二つの境遇を行ったり来たりするさまを描いているのは、やはりプロの賤業婦には打算がつきものであり、打算を度外視した本当の恋愛を求めるためには、うぶな素人の女に越したことはない。しかし現代の日本社会にはどこを探してもそんな女は見当たらない。そこで半ばはうぶでありながら、古き日本の良さをも感じさせる女を求めようとすれば、この小説の中のさだ子のように、賤業婦の境遇をわかっていながらも、気持ちとしてはうぶな女のそれを失わないでいるような女しか思い当たらないと考えたからではないか。そう考えたからこそ荷風は、この小説の中で、上述したように、半ばは賤業婦、半ばはうぶで、その二つの境遇を行ったり来たりする女を取り上げて描いたのだと思う。

これは妥協のようで妥協ではない。妥協ではないというのは、妥協せずにすむところを妥協したわけではなく、これしか選びようがないわけであるし、また妥協というのは、本来ならうぶなままで理想の女でいられるような女を、現実社会にはいないにしても、小説の世界では想像できるという利点をわきまえながら、あえて中途半端な境遇の女を選んだからである。

それはともかく、この小説で荷風散人が示したのは、彼なりの女性の理想像であったことは間違いない。この理想像に近い女性は、すでに墨東奇譚の中でも示されていたが、墨東奇譚のお雪さんは、あまりにも存在感が薄かった。それは、荷風散人がお雪さんを理想的に描こうとして、彼女から人間臭いところを除いてしまったことに由来するので、その結果お雪さんは現実離れした幽霊のような存在になってしまった。やはりそれではいけない。人は幽霊を相手には真の恋愛が出来かねるからだ。

そんなわけで荷風散人はこの小説「浮沈」においては、主人公のさだ子を、半ばは賤業婦の境遇に近づけることで確固とした存在感を付与する一方、うぶな境遇の彼女の生き方・感じ方に日本の古き良き女の伝統的な美しさを認めてやったのだと思う。

それにしてもこの小説には白々しいところもある。というのも、さだ子という女は次から次へと男を取り換えるのであるが、その理由があたかも不幸な運命に迫られてのことだと自分では思っているらしい一方、新しい男と近づく時には、精神的なものよりも肉体的な欲求に迫られて男に身を任せているようにも見えるからである。またさだ子を愛するようになった越智にしても、古き良き日本を体現したさだ子に魅力を感じたと言っているものの、その感じ方に多少子どもじみたところがある。越智がさだ子に夢中になったのは、彼の経験不足からくる誤解のたまものではないか。さだ子は決して越智が思っているようなうぶな女ではなく、けっこうしたたかなところがある女だと読者には映るところもある。したがって越智がさだ子に夢中になっているのは、ただ目がくらんでいるせいだと思われないでもない。

ひとつだけはっきりしているのは、さだ子が虚栄とか打算とかではなく、その場に自分を見舞っている純粋な感情だけをたよりに行動していることだ。その純粋さだけは彼女のために尊いものとして認めてやらねばなるまい。

冒頭近い部分で言ったように、この小説は越智の日記を披露することで終わる。小説中に日記をさしはさむのは、西洋の小説ではよくあるテクニックであり、荷風自身は「墨東奇譚」のなかで日記ならぬ別の小説をさしはさんだものだが、こうした技法は物語の流れを複雑にするばかりで、かえって小説の醍醐味を阻害する働きをしかねない恐れがある。実際「墨東奇譚」では別の小説が劇中劇のように差し挟まれることで、物語の流れが淀みがちになっている。それに比べればこの「浮沈」における日記の差し挟みは効果的に働いていると言えるのではないか。この小説の眼目とも言える荷風自身の女性観の披露を、作者自身の口からではなく作中人物の筆を借りて表現することで、その主張するところにもっともらしさを付与することに成功しているからである。







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