デルス・ウザーラ:黒澤明のソ連映画

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黒沢明が1975年に作った「デスル・ウザーラ」は、一応日ソ共同制作ということになっているが、金の出所から俳優までほとんどすべてがソ連からなので、実質的には純然たるソ連映画と言ってよい。黒沢はソ連に招かれて映画のメガホンをとったという形だが、誇り高い黒沢がなぜ外国映画の制作にかかわる気になったのか。おそらく日本国内では、自分の好きな映画が作れないので、外国の映画でも作ってやろうかという気持ちになったのだろうが、詳しいことは筆者にはわからない。

この映画は、ロシア人のシベリア探検家アルセーニエフの探検記をもとにしている。アルセーニエフは、20世紀の初頭にアムール川流域の探検と測量に従事したが、その際にガイドとして雇ったゴリド人デルス・ウザーラとの交流を、探検記のなかで情緒豊かに描いた。この映画はその二人の人間的な交流をテーマにしたものだ。このテーマを、ソ連側が用意したのか、それとも黒沢が自分で気に入って採用したのか、それも筆者にはよくわからない。ただ、黒沢がこの二人の人間的な交流に深い感銘を受けただろうということは伝わってくる。映画にはそんな黒沢の共感があふれているように感じられるのだ。

ゴリド人というのはトゥングース系の狩猟民族で、いまではナナイ族と呼ばれるようになって、すっかり文明化したようだが、20世紀の初めの頃までは、かなり原始的な狩猟生活を送っていたようだ。映画はそんなゴリド人であるデルス・ウザーラの生き方に焦点を当てている。

デルス・ウザーラは、ウスリー川流域の原野で主に動物を狩って生活をしている。彼がロシア人の探検隊と遭遇し、カピタンのアルセーニエフと意気投合してガイド役をつとめるようになったのは、年齢的にいくつくらいのことなのか、映画には明示されていないが、前後の事情から推して、初老の域のことだったのではないか。彼は、以前は妻や複数の子どもたちと暮らしていたらしいが、家族を天然痘で失ってからは、ずっと一人で暮らしてきた。だからおそらく人恋しさの感情もあってのことだろう。ロシア人のアルセーニエフに強い友情を覚えるようになるのだ。

映画は、ウスリー地方の厳しい自然のなかで、困難な探検を続けるアルセーニエフの一行と、彼らを道案内するデルスとの関わり合いを淡々と描いている。ウスリー川流域といえば、中国との国境を控えており、中国人も暮らしている。映画の中では、隠者のようにして暮らしている中国人が出てくるし、動物の乱獲をして無駄な死をもたらす悪い人間たちとして描かれてもいる。悪い人間の集団としては匪賊も現れるが、これも中国人の可能性が高い。当時は中ソ関係が悪化していた時期なので、ソ連側の中国を見る目は厳しかったわけだ。だから、中国人への侮蔑的な目は、黒沢というよりはロシア人の目なのだと思う。

ウスリー川流域の自然は厳しい。同時にまた美しい。映画はその自然の美しさと厳しさとをリアルに表現している。この映画の最大の魅力は、沿海州の自然を如実に表現していることにあると言ってよい。

映画は前後二編に分かれ、前編では初老のデルス・ウザーラの超人的な能力が描かれ、後編ではようやく年老いたデルス・ウザーラが、おそらく白内障で目が見えなくなり、ゴリドの狩猟民として生きられなくなる姿を描いている。デルス自身は、自分の目が見えなくなったのは、老いのもたらした病気ではなく、森の神カニガの怒りをかったからだと思っている。デルスははずみで虎を殺してしまうのだが、それがカニガの怒りに火を注いだと思い込んでいるのだ。さすがのデルスも神の怒りの前には恐縮するしかない。彼は自然の中で生きてゆく自信を失い、アルセーニエフの行為に甘えて、ハバロフスクにある彼の家の居候になる。しかし生来自然の中で生きてきたデルスにとって、都会の暮らしは苦痛に満ちたものだった。そんなわけで再び自然の中へと旅立つのであるが、その直後に何者かによって殺されてしまうのだ。その際に、アルセーニエフからもらった最新式の銃を持っていなかったので、おそらくこの銃を欲しがった者によって殺されたのだろうというようなアナウンスが流れる。

映画はすべてロシア語で進む。デルス・ウザーラもあまり流暢でないロシア語を話す。自分自身(わたし)のことはマヤー(わたしの)と言い、相手(あなた)のことはトヴァヤー(おまえの)と呼ぶ。動詞はすべて現在形だ。日本語同様トゥングース系の言葉にも、動詞の過去形はないのだろう。というより、動詞にしても名詞にしても、言葉の屈折というものがないために、たとえば人称代名詞にしても、格変化が苦手で、すべて一つの形(一人称ならマヤー)で間に合わせてしまうのだろう。

それはともかく、デルス・ウザーラは野生の人間として描かれ、それを文明化したロシア人が、あたかも原始的な動物を見るような目で見る、というようなところがこの映画にはある。もっとも、その眼差しは深い友情に裏打ちされているので、嫌みな感じは起こさせない。

ともあれ、黒沢にしては非常にめずらしい性格の作品と言える。






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