学海先生の明治維新その十四

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「先日も話したように、弘庵先生は国防について憂慮されてはいたが、頑迷な攘夷論者ではなかったのじゃ。海防を強化して外国の侵略を防ぐというのが先生の本意であって、なにも外国人を一人残らず締め出せなどとは考えていなかった。そこが水戸学とは違うところじゃ。水戸学は日本の神聖さを外国の野蛮さに対比させて、日本の神聖さを守るために外国を排除すべしと考えておった。しかし国力の差を考えればそんなことのできようはずもない。そのあたりは弘庵先生は十分に自覚しておったのじゃ。ところがその当時の日本は頑迷な尊攘思想が蔓延して、みな熱に浮かされたように絵空事のようなことを喚いておった。それを焚きつけたのは水戸学で、そういう意味では水戸学というのは時代の流れをわきまえぬ空疎な主張だったと言えよう。弘庵先生はその空疎な主張にかぶれておったわけではないぞよ。わざわざ京都まで出かけて行って尊攘派の人々と交わりもしたが、それは互いの意見を交換して世の中の流れを見極めるのが目的で、別に彼らと一緒になって攘夷の運動を起こそうというつもりはなかったのじゃ」
「学海先生ご自身はどうお考えだったのですか?」
「ワシも弘庵先生と同じ考えじゃ。諸外国から我が国を守るためには国力を強化せねばならぬ、と考えておった。そのためには徳川家を中心にして諸大名が一致団結し、天朝と協力しながらこの国の発展を図るのが肝要だとな。」
「当時公武合体という言葉がよく言われましたが、先生のお考えもそれに似ているということですか」
「まあ、幕府と天朝とが対立するよりは協調するほうがよいに決まっとるからの」
 どうやらこの当時の先生の意見は公武合体論に近いものだったようである。すると頑迷な攘夷思想をまき散らす水戸学とは肌が合わないはずだ。まして水戸学を振りかざしてテロにあけくれる天狗党には苦々しい気持ちを持っていたのではないか。
「先生は天狗党をどうお考えでしたか?」
「まあ、我が主君の仇をとってくれた点は評価したいが、その後は暴走しすぎたようじゃな。とくに元治元年の天狗党の暴走は日本中が大迷惑じゃった。なんでも天狗党内部も二つに分裂し、過激派は長州藩をめざす途中山陰で撃破され、穏健派は幕府の命を受けた諸藩によって粉砕されたということじゃ。その折に我が佐倉藩も天狗党の残党を武装解除して幽閉したことなどもあった。ほかの藩が厳しく弾圧したのに比べれば、我が藩は穏やかな措置をとってやったものじゃ。その辺の事情は学海余滴という随筆に書いておいたので、それを読めばよろしかろう」
「この時の天狗党の暴れ方は尋常ではなかったようですね。私は先日栃木の街を歩くことがありました。その折に全国的に有名な栃木の蔵について、その歴史を土地の古老に聞いたことがありましたが、栃木は天狗党に焼かれたために古い蔵は一つも残っていないと言っておりました」
「彼らは移動する先々で金や物資を調達したということじゃ。その折に逆らったり手を抜いたりする者に対しては残酷な仕打ちをしたようじゃ。オヌシの言われるようなこともあったかもしれぬ」
「ところで話を文久三年以前に戻したいと思いますが」と小生は口を挟んだ。文久三年の日記は残っているので、とりあえずはそれ以前についての空白を埋めるのが先決と思ったのだ。
「文久二年に一橋家の慶喜が将軍後見職につきましたが、これについてはどう思われましたか?」
「井伊大老が死んだ後で一橋派が生き返ったのだと当時噂されておったが、実際その通りじゃったと思う。家茂公ご自身はわずか十三歳にして井伊大老によって将軍に担ぎ出されたこともあって、この国難の時代に何かと指導力の不足が目立った。皇女和宮さまをご正室に迎え公武合体を推し進めようとはなさったものの、文久二年と言えばまだ十六歳の若さじゃ。思うように政治の舵取りができぬ。慶喜公に政治の実権を握られるのも無理のない話じゃ」
 文久二年の夏には生麦事件が起こり、幕府がその尻拭いをさせられるということがあった。また会津藩主松平容保が京都守護職に任命されたり、朝廷では攘夷実行が確認されたり、歴史はあわただしい動きをする。すべての日本人が否応なしにこの動きに巻き込まれていくわけだが、学海先生はそれをどのようにして受け止めまた行動したのか。興味深いところではあるが、この間の日録が欠けているために、先生のその当時の気持や行動について詳しいことはわからない。先程の先生の言葉から、公武が一体となってこの動きにあたるべきだと考えている様子が伝わってくるだけである。
 小生としてはもっと広範にわたって先生の話を聞いてみたかったのだが、とりあえずは以上のような話で我慢した。なお先生の師藤森弘庵翁は文久二年に赦免されて江戸へ戻り、次男光吉の家に隠居していたが同年十月に死んだ。これも日録欠落期間中に起きた重要な事柄である。
 歴史上の事件についてはこれで我慢することとして、小生は先生の個人的な出来事についても是非聞いておきたいと思った。
「安政七年以降文久二年までの先生の一身上に起きた事柄についてもお聞かせください。先生はたしか文久元年に結婚されたのではありませんか?」
「うむ、安政五年の暮に藩の役職について以来暮らしが安定しての。兄上から嫁を貰えという話があって、佐倉藩士藤井善之の娘を嫁に迎え、藩から渋谷の下屋敷の長屋に住まいを頂戴してそこで生活した。翌年の文久二年には早くも子どもが生まれた。女の子でな、窕と名付けた。詩経国風を飾る名句窈窕たる淑女からとった名じゃ。そのような淑女になって欲しいという親心じゃ」
「結婚したこと以外先生にとって重要な意義をもつことはこの時期にありましたか?」
「いや、そうたいしたことは、文久三年に国元で代官職につくまでは起こらなんだ。文久三年のことは日録に記したとおりじゃ」
「すると渋谷の下屋敷に新婚生活を営んで、毎日を無事平穏に過ごしていたというわけですね?」
「何やら意を含んだ言い方に聞こえるな。たしかに傍目には無事平穏に見えたかもしれぬが、藩の学校の教授職を命じられたり、そのほかにも藩の重要な仕事を任されたり、自分なりに勉励しておったのじゃ」
「藩の学校といえば、幕末の佐倉藩は蘭学が盛んだったというじゃありませんか。私は佐倉高校という学校に入ったのですが、これは藩校成徳書院が発展したもので、成徳書院の蔵書を多く所蔵しているそうです。その成徳書院が佐倉の蘭学の拠点で、その学問的な水準は当時一流とされ、西の長崎東の佐倉と称されたと当時の佐倉高校の教師たちがよく言っていたものです。佐倉の学問水準はそんなに高かったのですか?」
「いや、藩校が蘭学を奨励したということはない。佐倉の蘭学は佐藤泰然の順天堂で行われておった。泰然は天保の末年に佐倉にやってきて、最初は町医者として西洋風の治療を行い、また蘭方医療の教育を行った。後に藩医に引き立てられたが文久二年ごろ家督を息子に譲って引退し横浜に去ったと聞いておる。じゃから佐倉の蘭学は藩自らが奨励したわけではないのじゃ。藩校の学問は儒学が基本じゃったからの」
「そうだったのですか。私はまた佐倉藩が率先して蘭学を奨励したものとばかり思っていました。当時の高校の教師たちにいっぱい食わされたわけですね。たとえ郷土愛からとはいえ、根拠もないことを生徒に吹き込むのはよくないことですね」
 小生がそう言うと、先生は
「それは佐倉藩の責任でも、ましてやワシの責任でもない」と言って涼しい顔をした。
 先生はその涼しい顔で庭の一隅を見ていたが、突然なつかしそうな声でこう言うのだった。
「あそこにイチジクの花が咲いておるの。渋谷の下屋敷の庭にもやはり咲いておった。イチジクは花も実も縁起がよいとされ、特にその実を食うと安産になると言われたもんじゃ。家人もその言い伝えを信じ、梅雨の間はイチジクの花を愛で、夏の終わりには実を裂いて食っていたもんじゃ。イチジクは漢字では無果花と書くが、何故そんな字を当てたのか合点がゆかぬ。その実をワシはうまいとは感じなかったが、女はみなうまいという。ともあれ家人は子を七人産み、そのいずれも安産じゃった」
「イチジクにそんな効用があるとは知りませんでした。このイチジクの木は随分昔からここに生えているものです。この家に引っ越してきたときにはすでにそこに生えていたのです。その実を私も食ってみましたが、先生がおっしゃるとおり、うまいと感じたことはありません」
 小生がそう言うと、先生は今度は空を見上げ、
「どうやら雨が降ってきそうな雲行きじゃ。雨にたたられるとあの世に帰れなくなる恐れがあるによって、ワシはこの辺で失礼する」
 小生としてはもっと話を聞きたかったのだが、先生は小生のそんな思いはどこ吹く風といった様子で、そそくさと帰り支度を始めた。そして以前のように煙に包まれながら姿を消したのだった。






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