踊子:荷風の世界

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荷風の小説「踊子」は戦時下の息苦しい時代に発表のあてもなく書いたものだ。そんなところからこの小説には荷風の本音のようなものが込められている。その本音というのは自分と女性との望ましい関係についてのもので、自分は女を愛玩動物のように可愛がりたいと思う一方、自分の生き方を女によって拘束されたくないというものだったように見える。実際この小説に出てくる二人の踊子、彼女らは実の姉妹なのだが、その二人とも主人公の男を拘束することがない。姉のほうは自分の亭主が妹に手を出しても文句を言わないばかりか、亭主が妹に産ませた子どもを自分が引き取って育てようとまでする。妹は妹で姉の夫にさんざんいい思いをさせてやったうえで、自分は踊子をやめて芸者になり、身を売った金を姉たち夫婦に気前よく与えるのである。その金で主人公の男は勝手気ままな暮らしをすることができる。スケコマシとまではいわないが、それに近い、女によって養われているような男である。

荷風の女遍歴はよく知られたことだから、彼が女に特別な思いを抱いていたであろうことは十分察せられることだ。その荷風の女に対する思いが、上述したような、男を自分の体で養ってくれるような殊勝な女だったというわけだ。もっとも荷風自身は女によって養われたという事実はない。むしろ女を妾同様にして囲ったり、あるいは小遣いを与えてセックスを楽しんだだけのことだ。大体荷風の小説と言うのは、彼が接した女たちをモデルにして、それらの女に対して感じた官能的な気持ちをそのまま文章にしたものである。だから女から感じられる官能が生き生きとしている限りは、それに対応して生き生きとした小説が書けた。

ところがこの小説にはその生き生きとしたところがない。どうも枯れてしまった感性しか感じられないのだ。感性が枯れて官能が衰えると、荷風の小説には潤いというものがなくなって、かさかさとした情緒の乏しい文章の羅列に陥りやすい。実際この「踊子」という小説にはそういうところが目立つように見える。全体的な印象として、他の小説に見られるような官能的なところがない。したがって男女の情交を描く場面も至極あっさりとしていて、まるで排泄のシーンを読まされているように受け取れる。

この小説を書いたのは戦争末期のことで、荷風はすでに六十をとっくに過ぎていたが、そんな年齢が荷風の官能をひからびさせたのであろうか。この小説には干からびた官能の残渣のようなものしか感じられないのである。それにしても齢六十半ばにして未だに官能にこだわり続けるとはいかにも荷風散人らしいと言えなくもない。この小説が発表を前提とせず荷風散人の手慰みに書かれたものであるだけに、官能にこだわる散人の業のようなものを感じさせられるところである。







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