デカルトの再解釈:ハイデガーのニーチェ講義

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ハイデガーはデカルトを、ライプニッツやカントと並んで非常に高く評価している。その理由は、デカルトが存在を人間の思惟の作用としての表象性によって根拠づけたことで、ヨーロッパの形而上学の伝統であったキリスト教的な思弁から我々を解放し、それによって哲学を真に人間中心主義へと転換させたことにあると見ている。ハイデガーは言う、「デカルトの思惟によって問題となっているのは、全人間性とその歴史を、キリスト教的人間の思弁的信仰真理の領域から、主観のなかに根拠づけられた存在者の被表象性へと置き移すという事柄なのであり、この被表象性の本質根拠から、いまやはじめて人間の近代的支配的地位は可能となるのである」(薗田宗人訳、以下同じ)

ところがハイデガーによれば、デカルトの思想は誤解され続けてきた。その誤解はニーチェも共有しているという。デカルトの思想を簡略に表現すれば、「われ思う、故に、われあり」ということになるが、これをニーチェもまた誤解していると言うのである。そのためにデカルトの真意が伝わらず、彼の哲学的な影響も間違ったかたちで波及したと言うのである。

デカルトのこの命題は、外見上は推論の形をとっている。それは次のような三段論法であらわされる。(大前提)思惟するものは実在する、(小前提)われは思惟する、(結論)故にわれは実在する。これが実質的な推論であることは、デカルトも基本的には認めているとハイデガーは言う。その結果、次のような批判が起こった。大前提も小前提も、思惟とかわれとか存在とかいうものを自明のことのように前提しているが、それが自明だという根拠はない。そのような不確かなことを根拠とした推論は成り立たない。こうした批判はニーチェも共有している。ニーチェによれば、思惟することの根拠が実在することなのであって、実在することの根拠が思惟することなのではない。ところがデカルトは、上の命題に含まれる大前提のなかで、思惟することが実在することの根拠であるかのような言い方をしている、と言うのである。

ハイデガーによれば、ニーチェのこの批判は誤解に基づいているということになる。デカルトの本意は、思惟することが実在の根拠であるというのではなく、表象する主体としてのワレに、思惟と実在という二つの要素がともに含まれているということである。つまり主体とは思惟する存在者なのであって、そのことは別に思惟とか存在とかによってはじめて根拠づけられるようなものではなく、人間に本質的に備わっているものなのである。「『私は存在する』は、『私は思惟する』からはじめて結論されるのではなく、『私は表象する』はその本質からして、むしろ『私は存在する』~すなわち表象者として~によって、すでに引き渡されたものなのである」というわけである。

デカルトが誤解されたことについては、デカルト自身にも原因があるとハイデガーは言って、デカルトの「最後の包括的著作」である「哲学原理」から次のような文章を引用している。「シタガッテ私ハ、<ワレ思ウ、ユエニワレアリ>トイウ命題ガ、アラユル命題ノウチデ、順序正シク哲学スル人タチダレモガ出合ウ第一ノ、カツモットモ確実ナ命題デアルト言ッタトキ、ダカラトイッテ、コノ命題ニ先立ッテ、<思惟>、<実存>、<確実性>ノ何デアルカヲ、マタ同様に<思惟スルモノハ存在シナイコトハアリエナイ>コトナドヲ、<知ッテ>オカナケレバナラナイコトトハ否定ハシナカッタ」。つまりデカルトは、「この認識に『先立って』、存在、認識などについての知が必要であることを、明白に承認している」と言うのである。

しかしデカルトがそうした知をとくに取り上げなかったのは、そんなことをしても思惟する存在者としての人間の理解に本質的な寄与をすることがないと判断したということであるが、これについてハイデガーは、デカルトはそんなふうに弁明する必要はなかったというような態度をとっている。思惟とか実存とか確実性といったものは、思惟する人間にとって自明のこととして与えられているというのがハイデガーの立場だからだ。人間はすでに生まれながらにして、思惟する存在者なのである。それがすべての議論の前提であって、したがってさらにほかのものによって根拠づけるべきものではないのである。

であるからして、デカルトの命題へのニーチェの疑問は的外れなのである。ハイデガーは言う、「この命題が完全にそのまったき内実において汲み尽くされうるのは、真理の絶対的な揺ぎなき根拠への探求の踏み出す唯一の方向において思惟されるときのみである。この探求は、必然的に根拠を、絶対的なものを、揺るぎなきものを、そして真理をめざして思惟し、ある特定の意味でこれらすべてを確実な存在者とみなすに足るもの、つまり確立しているものとひとつに合わせて思惟する。この確実なるもの、もっとも熟知されたものの意味で、存在、認識、表-象作用についての先行的概念も表象されるのである。ワレ思う・ワレありの命題は、これらの概念がすでにこのようにして表象されていることのみを述べている。デカルトの命題が立証されていない諸前提に依拠し、それゆえにいかなる根本命題でもないというニーチェの反論は、二つの点において不当である」

このようにハイデガーは言って、その不当な理由を二つあげている。「第一に、総じてこの命題は、さらにそれ以上の大前提を必要とするような推論ではない。第二に、そしてなによりもまずこの命題は、その本質からいって、前-提~それが欠けているとニーチェは言うのであるが~そのものである。この命題において、あらゆる命題とあらゆる認識が自らの本質根拠として引証するところのものが、前もって格別に定立されるのである」

このハイデガーの見方が、思惟を存在によって基礎づける自らの立場にことよせたものであることは容易に見て取れる。だから読者は、どこまでがデカルトやニーチェのオリジナルな意見であり、どこまでがハイデガーの設けたフィルターに濾された意見なのかを、見究める必要があるだろう。

ともあれ、ハイデガーは従来の哲学史の常識を一旦白紙にもどして、新たな視点から哲学史~ハイデガーの言葉で言えば形而上学の歴史~を見直そうとしているわけである。その視点とは、ハイデガー独自の思想に裏付けられたものであるわけで、その視点がデカルトやニーチェを見る見方に独自のフィルターを提供しているわけである。それはそれで知的な興奮を掻き立てられるところである。

   




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