カルメン純情す:木下恵介

| コメント(0)
kinoshita11.carmen3.JPG

「カルメン純情す」は「カルメン故郷に帰る」の続編ということになっている。映画のエンディングで「第二部」と書いてあるところからも明らかだ。第一部では、頭の足りないストリッパーが久しぶりで故郷へ帰って巻き起こす騒動が描かれていたが、こちらはその数年後に、ストリッパーのカルメン(高峰秀子)が男に惚れるところを描いている。題名にある「純情す」とは、うぶな女が男に惚れる気持ちを表わした言葉のようだ。第一部で彼女のストリッパー仲間だった女(小林トシ子)は、子どもを背負って彼女の前に現れる。この女は男に惚れたあげく、子どもを抱えたまま捨てられてしまったのだ。そんな友達を見るにつけ、カルメンはしっかり生きてゆこうと決心するわけなのである。しかし頭の足りないこととて、決心はなかなかスムーズに実現しない。あげくの果ては、恋に破れて意気消沈してしまうのである。

カルメンが惚れた男は今売り出し中の前衛芸術家だ。許嫁がいて、その女の金が目当てという計算高い男だ。この男に限らず、この映画に出てくる人間どもはみな金の亡者のような輩ばかりである。男の両親も金の亡者であるし、婚約者の母親も金と名誉が生きがいのような女、というかバアさんである。そのバアさんを三好栄子が演じている。なかなか見所のある演技ぶりだ。女伊だてらにひげを生やし、代議士の選挙に打って出るつもりでいる。その政治的な信条は、復古主義的なもので、日本の再軍備を主張している。その多少いかれた勇ましさは、昨今のこの国の女代議士たちの先輩格といってよい。

このバアさんは女右翼だが、カルメンの友達を捨てた男はアカ、つまり共産党ということになっている。共産党は、表面では正義ぶっているが、やっていることはえげつないというような画き方になっていて、当世の日本の政治を論じる者は、右も左もいかがわしい連中ばかりだ、というような木下らしいメッセージが伝わってくる。

さて主人公のカルメンであるが、彼女が男に惚れたわけは、男の芸術に感心したからだった。彼女は感心するばかりでなく、自分自身も芸術家になりたいと志す。とりあえずストリッパーをやっているが、これはどう見ても芸術とは縁がない。それどころか、惚れた男の目の前で裸になるのが恥ずかしくてしょうがなくなり、そのためにストリッパー小屋から追い出されてしまう始末だ。だが彼女はへこたれない。ストリップのダンスに代わってバレーを習ったりして、なんとか芸術家らしい雰囲気を身につけたいと頑張るのだ。

愛する男のフィアンセ(淡島千景)は色情狂のような女で、何人も男を自分の家に入れてはセックスを楽しんでいる。ホテルでやるのは金がかかるからという理由からだ。その女と芸術家が結婚する気になったのは無論金のためだ。そんな欲の塊のような男になぜカルメンが惚れたのか。それはやはり彼女の頭が足りないせいなのだろう、というようなシラケた感じが映画からは伝わってくる。頭の足りない女にも、頭が足りないなりにもっとやりようがあるだろうに、カルメンは恋する女としての振るまい方がよくわからないせいで、ただただ足蹴にされるばかりなのだ。それでもカルメンは相手を恨んだりしない。男の幸福を願って自ら身を引くのである。こんなに心の清い女がかつていたろうか、というわけである。

カルメンを演じる高峰秀子が、ショートスカートをはいて子どもたちと一緒にバレーの練習をする場面が出てくる。それを見ると、高峰はかなりの大根足だ。それに丸顔でどちらかというとお多福面といってよいのに、何故か女としての色気を感じさせるから不思議だ。ストリップを演じているときには、乳房も披露している。決して豊満ではないが、ふっくらとした丸みを感じさせる。それを披露するというのは、この時代としてはかなりの出血サービスだ。

この画面を見てわかるように、カメラの角度が極端に傾いている。これは他の画面でも同じだ。その傾き方に一定の規則は見られないので、木下はいきあたりばったりに、カメラを傾けながら被写体を写していたように見える。どういうつもりだったのか、よくわからないし、またそれが成功しているようにも見えない。







コメントする

アーカイブ