学海先生の明治維新その廿一

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 学海先生の江戸留守居役への転身について書いていた頃、東京都の夏の定期人事異動があって、小生は教育委員会から財務局へ異動した。異動先は管財部というところで、用地買収価格の査定や公有財産の売却価格を決定する部署だった。金にからむ職というのはいろいろ気を遣うと聞いていたのであまりうれしくない辞令であったが、勤め人は自分に与えられた職に不平を言ってはならぬという鉄則があるので、辞職を覚悟していない限りは唯々諾々と従うほかはない。小生もまたその例に漏れなかった。
 辞令をもらって前任者に挨拶に行くと、色々親切に仕事の心得を教えてくれた。この仕事は都議会議員との関係がポイントで、彼らとうまくやることが何よりも肝要だ。金にからむ仕事だから何かと圧力がある。なかでも支持者から口利きの要請を受けた都議が価格を上げろだとか、逆に下げろだとか言ってくる。それにいちいち反応してはいられないが、かといって無視もできない。適当なところに落ち着けて都議の顔を立ててやらないと後々恨まれて足を引っ張られることになる。とりわけ与党の有力議員と言われる連中には細心の注意が必要だ。古株で影響力の強い議員の意向に逆らうと、本庁の部長職でもただちに左遷されたり辞職に追い込まれたりする。あなたもその辺はわきまえていらっしゃるだろうが、改めて肝に銘じておいたほうがよろしい、と忠告されたのだった。
 この前任者は外の局の部長級のポストに昇任した。ということは都議会議員ともうまくやってきたということだろう。小生にもそれができるかどうか。いささか学海先生と似たところのある小生には都議の前に膝を屈してその意向に唯々諾々として従うことができるか、不安がないでもなかった。だが、そんな不安にさいなまれていては役人は務まらない。
 引継ぎが一段落した頃あかりさんといつものとおり銀座一丁目の喫茶店で逢い引きした。アイスコーヒーを飲みながら待っていると、白っぽい色のツーピースとやはり白っぽい色の鍔広の帽子という出で立ちで現われ、席に着くやいなや満面の笑みを浮かべた。彼女の笑顔は文字通り顔全体で表現されるのだ。大きな口を左右に大きく開き、大きな目を更に大きくして、声こそ出さないものの、呼吸する息づかいが周囲の空気を攪拌してさわやかな風を吹かせる、そんな風情の笑い方だった。
「何を飲む?」
「いつものとおりミルクティーでいいわ」
 そこで小生がウェイトレスを呼んでミルクティーを注文すると、彼女はさわやかな顔を小生に向けながら、
「他の仕事に変わったんですってね。教育委員会の会報にあなたの異動したことも載っていて、それで知ったんですけど、すぐに連絡しようと思ってもどこにいるかわからないし、どうせすぐ会うんだからそれまで待っても遅くはないと思って今日まで我慢してたの。おめでとうと言ってよいのかどうか、私にはわからないけど、とりあえずおめでとうでいいのかしら?」
「横転と言って、同じランクのポストへの異動だから、別に栄転でもないのだけれど、異動すれば気分も一新できるし、なにより人事異動は役人にとって最大の出来事だからね。良い意味でも悪い意味でも。いつまでも異動しないで同じポストに長くいると退屈を感じるようになるから、二三年ごとに異動するのはいいことなのさ」
「財務局ってどんなところなの?」
「お金を扱うところだよ。予算とか決算とか」
「あなたがするお仕事はどんなことなの?」
「不動産鑑定のような仕事だよ。用地買収の価格を査定したり公有財産の売却価格を決定する仕事さ」
「あまり楽しそうにも思えないわね。それなら教育委員会で人を育てるお手伝いをしている方が面白いのじゃない?」
「かもね、でも役人には自分の仕事は選べないし、また定期的に異動することは精神衛生にもよいからね」
「そんなものなの? 教員の世界とは大違いね。教員の世界ではだいたい十年単位くらいで職場が変わるわ。あまり頻繁に異動するのはよくないことだと思われてる」
「まあ、教員があまり頻繁に異動していたら人を育てることに責任がもてなくなるだろうからね」
「いままで何回くらい異動したの?」
「さあ、十回以上じゃないかな」
「へえ、もうそんなに異動したの?」
「だいたい二年ごとに異動しているからね」
「どんな仕事をなさってきたの?」
「最初は清掃事務所というところに配属されてゴミ集めをしたよ。僕が入った頃はまだ下水が完全に普及していなくて、トイレの汲み取りなどもしていた」
「へえ、面白そうね」
「バキュームカーで汲み取った屎尿はいったん中継所に集められ、そこから平水船という小さな船に積み替えて、それを僕らは<うんこぶね>と呼んでいたけどね、その船からさらに大きなタンカーに積み替えて海に放流するんだ。大島と野島﨑を結んだ線の外側で放流するんだよ。そのまま放流すると浮かび上がってしまうので、硫化鉄を一緒に混ぜて沈殿させるんだ。放流するとその周囲におびただしい数のカモメが集まってきて、海面に向かって突進する眺めがすごいと誰かが言っていたよ」
「その光景が思い浮かぶようだわ」
「放流した屎尿のうちの固形物はそのうち海面に浮かび上がり、黒潮に乗ってアラスカのほうまで流れていくんだけれど、一部は九十九里などの海岸に打ち上げられる。その実態調査をしたことがあるけれど、どういう風にやるかというと、屎尿の中に浣腸を混ぜておき、それに東京都の目印をつけて置くんだ。すると海岸に流れ着いた浣腸の数から屎尿の漂着している様子が推測できるんだ。浣腸を見てそこに東京都のマークが書いてあると、ああ、これはうちの浣腸だ、と言ったものさ」
「うちの浣腸とは傑作ね」
「話が下品になってしまったけれど、そろそろ食事をしにいこうか」
 小生はこう言って彼女を促し、喫茶店を出ると隣接するビルの最上階にある和食屋に席を移した。
 会席料理を食べながら我々はさらに会話を楽しんだ。
「ところで例の小説だけど、進行状態はどお?」
「少しづつ軌道に乗ってきたよ。いまは学海先生が三十三歳の頃江戸の留守居役に異動したところを書いている。小説のなかで人事異動のことを書いていたら自分自身にも人事異動の辞令が下りたというわけさ」
「小説なんて、読むばかりで自分では書いたことはないけれど、あなたはどんなふうにして書いているの? だいたい昼は働いているわけだから、小説を書くために時間の確保が大変だと思うのだけれど」
「そうだね、毎日書くというわけにもいかないね。だいたい休日に書いている。興に乗ったときには夜間書くこともあるけど。いずれにしても時間は限られているので遅々とした歩みさ」
「小説の構想はどうしてるの。あらかじめ全体の構想を綿密に立ててから執筆に取りかかるの? それとも構想はかなりラフなまま執筆するの?」
「僕の場合はごくゆるやかな構想を立てて、書きながら筋の展開を考えるタイプだね。構想に従って書くというやり方だとある程度の集中が必要だし、それに比べればアトランダムの執筆のほうが息が長くなる」
「すると書いているうちに最初考えていたのとは違う方向に進んでしまうなんてこともあるわけ?」
「それはあるかもしれないけど、僕の場合にはまだまだ書き始めていくらも経たないからね。何とも言えないよ」
「ところで」とここであかりさんは話題を変えた。
「うちの学校の事務員さんで都庁の職場に異動したいと望んでいる人がいるんだけど、移れるものなのかしら。移れるものなら移らせてあげたいんだけれど」
「いや、学校から東京都の他の部局に移るのは至難のわざだよ。学校から教育委員会に移ることもむつかしい。人事系列がまったく別なんだ。そもそも採用するときから別の窓口になっている。学校の事務職員は他の一般職とはまったく異なった人事体系になっているんだ。どうしても都の一般職になりたかったら管理職試験を受けて合格するよりほかに方法がないというのが正直のところだ」
「へえ、そんなものなの。教員が教育委員会に移ることはよくあるけど、事務職員が教育委員会に移る道が閉ざされていたなんて知らなかったわ」
「教員の人事はまた別問題だからね。それでも誰もが教育委員会に行けるわけだはなく、ある限られたルートに乗った人が学校現場と教育委員会を行ったり来たりしているわけさ」
「あなたみたいに、教育委員会と都の別の部局を行ったり来たりしている人は他にも多いの?」
「管理職の中にはそういう人は一定程度いるけど、一般職員は教育委員会一筋という人がほとんどだね。管理職でも外の局の経験が無いという人がいくらもいる」
「今日はいろいろ参考になったわ。ともかく今回はおめでとうございます。心機一転して頑張ってくださいな」
 あかりさんはそう言いながら次々と出される会席料理の皿を片付けていくのだった。





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