アナクシマンドロスの言葉:ハイデガーの存在論

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アナクシマンドロスは、タレスと並んでギリシャ最古の哲学者とされる。ギリシャ最古ということは、ハイデガーにとっては人類最古の哲学者ということになる。何故なら、哲学はギリシャ人から始まったからだとハイデガーは考えるからだ。「アナクシマンドロスの言葉」と題した小論は、アナクシマンドロスの有名な言葉の解釈を通じて、哲学がそもそものはじめから存在への問いとして始まったことを明らかにしようとするものだ。その問いを、アナクシマンドロスと数千年を隔てたハイデガーが受け継ぎ、存在について十全な形で解明を与える手がかりとすること、それがこの小論の目的であると言ってよい。

アナクシマンドロスの言葉とは、ギリシャ語の原文にしてわずか二行に収まる短いものだ。その短い文章の中に、人類にとって本質的な意義を持つ思想が含まれている、と言うのである。この言葉をハイデガーは、まずニーチェのドイツ語訳で示し、また有名なディールスの訳や自分自身の訳をあわせて示しながら、テクスト批判とその解釈を展開して見せるわけである。その展開の仕方は、例によってハイデガー一流の言葉の遊びという観を呈し、あたかも言葉の空中サーカスを見せられているように感じさせられるところだが、それを通じて浮かび上がってくるのは、存在についてのハイデガー独特の解釈というわけである。

まず、アナクシマンドロスの言葉を、ニーチェ、ディールス、ハイデガーのドイツ語訳がどう表現しているかから見てみよう(引用は田中加夫訳から、以下同じ)。

ニーチェ<事物がそこからしてその生成を持つところのものへと、それらは又必然的に没落しなければならない。何故ならばそれらは、時間の順序に従って罪の償いをなし、又その不正の故に裁きを受けなければならないからである。(Woher die Dinge ihre Entstehung haben, dahin müezen sie auch zu Grunde gehen, nach der Notwendigkeit; den sie müezen Buße zahlen und für ihre Ungerechtigkeit gerichtet warden, gemäß der Ordnung der Zeit.)>

ディールス<併しながら事物がそこからして生成を持つところのものへと、それらの消滅も又必然的に向かうのである。何故ならばそれらは、定められた時間に従って、その非道の故に相互に罰を受け、又相互に罪の償いをなすことになるからである。(Woher aber die Dinge das Entstehen haben, dahin geht auch ihr Vergehen nach der Notwendigkeit; denn sie zahlen einander Strafe und Buße für ihre Ruchlosigkeit nach der festgesetzen Zeit.)>

ハイデガー<併しながら、そこからして事物に生成があるところのもの、そのものへとまた消滅は必然に従って起る。即ち事物は、時間の順序に従って、相互に不正のゆえに裁きと罰とを与えあうのである。(Aus welchem aber das Entstehen ist den Dingen, auch das Entgehen zu diesem entsteht nach dem Notwendigen; sie geben nämlich Recht und Buße einander für die Ungerechtigkeit nach der Zeit Anordnung.)>

ハイデガーがかくも、複数のドイツ語訳を並べてまでテクストにこだわるのは、この言葉が大きな誤解にさらされてきた歴史を考慮してのことである。これまでの通俗的な理解によれば、アナクシマンドロスのこの言葉は、自然について、それも狭義の自然、つまり精神的な事柄や人間の制作にかかわるものを除いた純粋な自然についての言明だと受け取られてきた。だがそうではない、というのがハイデガーの理解である。ハイデガーはこの言葉を、ありとあらゆる存在者についての言明であると受け取るのである。そこからさらに進んで、ありとあらゆる存在者の存在について、この言葉は語っている、とする。そこからしてこの言葉は、存在への問いを人類の歴史の上で初めて提起したものであって、したがって存在論としての哲学の黎明を告げる言葉なのだと、ハイデガーは捉えるわけである。

こう踏まえたうえでハイデガーは、この言葉の綿密な解釈を通じて、アナクシマンドロスの存在についての考え方を解明してゆく。その作業は先ほど述べたようにさながら言葉のサーカスを思わせるものであって、読者はサーカスを楽しむばかりでなく、そこからハイデガーの言わんとすることを受け止めたうえで、果たしてそれが意味のある思想として評価に耐えるものなのかどうか、自分なりに判断しなければならない。ハイデガーの推論は、言葉のサーカスという言葉が奇異でないくらいに彼一流の前提に立っているので、その前提を共有できない者には、たわごとにしか聞こえないだろう。もしもたわごとでないのだとしたら、ハイデガーの言っていることはいったい、何を意味しているのか、それをよく考えなければならない。

アナクシマンドロスのこの言葉をハイデガーは、とりあえず事物の生成と消滅について語ったものだと捉える。この場合事物とは個々の存在するものではなく、およそあらゆる存在するもの、存在者一般というふうにとらえる。その点では、アナクシマンドロスは自然の事物を問題にしたプリミティブな自然学者だとする常識を覆して、あらゆる存在者としての存在者一般を問題にした初めての思想家だと評価するわけである。

そう評価したうえでハイデガーは、アナクシマンドロスの存在についての考え方を解明してゆく。と言っても、アナクシマンドロスの思想を表わしている言明は、この短い言葉に込められたものだけなので、そこからわかりやすい形でアナクシマンドロスの存在についての思想を全面的に遺漏なく解明するというわけにはいかない。したがってハイデガー自身の推測がかなりの程度働くということになる。その推測を交えながら、ハイデガーはアナクシマンドロスの存在についての理説を次のようにまとめるのである。

アナクシマンドロスにとってあるものが「存在する」とは、「隠されていないことへの中へと現存すること」を意味する。わかりやすく言えば、あるものがそれを見る者の前にあらわな姿で、つまり隠されていない状態で現存することである。これに対してかつては現存したがいまは現存しないものは消滅したのであり、いまだ現存しないがやがては現存するだろうものは生成すべきものである。消滅したものも生成すべきものもいま現存していない点では隠された状態にあると言ってよい。ところがあるものの存在とは、いまだ現存していない状態から既に現存していない状態への移り行きのなかで、たまたまいまの時点で現存している状態のことをあらわす。あらゆる存在者はこのように、未だ存在しない状態から、存在するものへと生成し、すでに存在しない状態へと消滅してゆく、そのような移行のなかの結節点のようなものとして生じてくるのである。

この捉え方は、存在を生成のなかの一つの局面とする考え方である。これはニーチェの思想を想起させる。ニーチェは存在の概念は生成するものに堅固な存続性を与えたいという人間の意思から生み出されたと主張した。伝統的な哲学では、生成と存在とは互いに相いれない対立概念だったが、ニーチェはそれを相互依存の関係に置きなおしたのだった。事物の存在は生成なしではありえないし、生成は存在として存続性を付与されなければ人間の認識の対象とはならない、というのがニーチェの考え方である。ハイデガーはニーチェのこの考え方をアナクシマンドロスにも適用することで、西洋哲学がそもそもの始まりから存在への問いであり、その存在とは生成と深いかかわりにあるという自分の考えに、有力な根拠を付与したいと考えたのではないか、そう伝わってくる。

ハイデガーは、生成のうちに存在者が現存として現われることを、「その都度『隠されていないもの』であることの間へと、『現存するもの』を手から手に渡すことである」と言って、それを収容と名付けている。そのうえで西洋の哲学の歴史は、この収容が含意するものをどのように解明してきたかということの歴史だとして次のように言っている。

「アリストテレスがεον即ち『現存』の根本性格と考えている『エネルゲイア』、プラトンが『現存』の根本性格と考えている『イデア』、ヘラクレイトスが『現存』の根本性格と考えている『ロゴス』、パルメニデスが『現存』の根本性格と考えている『モイラ』、アナクシマンドロスが『現存』の内に現成しているものとして考える「収容(クレオーン)」~これらはいずれも、同じもののことを言い現わしているのである」

つまりハイデガーは、西洋の哲学はそもそものはじめから存在者の存在を隠れなきものとして現存することだと捉え、しかもそれを生成との関連で考えてきたのだと主張するわけである。

   




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