荷風の女性遍歴その四

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馴染を重ねたる女一覧表十三番目の関根うたは、荷風が生涯に愛した女のなかでは、若い頃に入籍した八重次を別にすれば、最も深く馴染んだ女だったと言える。浮気者の荷風にしては珍しく四年間も関係が続いたし、別れたあとでもたびたび会っている。そして老いてなお、折につけてはその面影を慕い続けた。荷風がこれほど思い入れを持った女は他にはなかなか見当たらない。

断腸亭日常の中で関根うたの記事が出てくるのは昭和二年八月二十九日である。その日の日記に、
「夜半妓を拉して家に帰る」という記事があるが、この妓が富士見町の芸者鈴龍こと関根うただったと思われる。その翌々日には
「密かに麹坊の妓家を訪ふ」とあり、更にその四日後には
「晩間麹坊の妓阿歌病を問ひ来る」とある。それ以後荷風は頻繁にお歌と会っている。つまり初めて会っていくばくもせずして、膠の如く離れがたい仲になってしまったのである。

そして九月十二日には
「阿歌妓籍を脱して麹町三番町一口坂上横町に間借をなす」と言う記事が見える。つまりこの日に荷風はお歌を身請けして、麹町三番町の一角に間借りさせ、自分の妾としたわけである。そのスピードからして、荷風がいかにこのお歌と言う女に入れあげたかわかろうというものである。

荷風がお歌と出会ったのは、古田ひさとの関係が破綻して、ひさのやくざっぷりにうんざりさせられていた時だった。荷風はひさと比較してお歌のおっとりした人柄に強く心を惹かれたものと見える。九月十七日の日記には、そのお歌の印象を次のように記している。

「夜お歌と神田を歩み遂にその家に宿す、お歌年二十一になれるといふ、容貌十人並とは言ひがたし、十五六の時身を沈めたりとの事なれど如何なる故にや世の悪風にはさして染まざる所あり、新聞雑誌などはあまり読まず、活動写真も好まず、針仕事拭掃除に精を出し終日襷をはずす事なし、昔より下町の女によく見らるる所帯持の上手なる女の如し、余既に老いたれば今は囲者置くべき必要もさしては無かりしかど、当人頻に芸者をやめたき旨懇願する故、前借の金もわずか五百円に満たざるを幸ひ返済してやりしなり、カッフェーの女給仕人と芸者を比較するに芸者の方まだしも其心掛まじめなるものあり、如何なる理由にや泥水稼業なれど、両者の差別は之を譬ふれば新派の壮士役者と歌舞伎役者との如きものなるべし」

荷風はお歌の素人らしい素直さに惚れ込んだことが伝わってくる。十月十三日には間借から一軒家に移らせている。

「市ヶ谷見附内一口坂に間借をなしゐたるお歌、昨日西ノ久保八幡町壺屋といふ菓子屋の裏に引移りしなれば、早朝に赴きて問ふ、間取建具すべて古めきたるさま新築の貸家よりもおちつきありてよし」(2/10/13)

荷風はこの一軒家を、壺屋の裏にあることから壺中庵と名付け、毎夜のように通った。荷風が通わない時にはお歌の方から夕餉の総菜を携えて訪ねた。二人はまさに新婚のカップルのように仲睦まじく暮らしたのである。そんな妾宅壺中庵のことを荷風は壺中庵記と題する次のような小文の中で満足げに披露している。

「壺中庵記
西窪八幡宮の鳥居前、仙石山のふもとに、壺屋とよびて菓子をひさぐ老舗が土蔵に沿ひし路地のつき当り、無花果の一木門口に枝さしのべたる小家を借受け、年の頃廿一二の女一人囲ひ置きたるを、その主人自ら扁して壺中庵とはよびしなりけり、朝夕のわかちなく、此年月、主人が身を攻むる詩書のもとめの、さりとては煩しきに堪兼てや、親しき友にも、主人はこの庵のある処を深くひめかくして、独り我善坊ケ谷の細道づたひ、仙石山の石径をたどりて、この庵に忍び来れば、茶の間の壁には鼠樫の三味線あり、二階の窓には桐の机に嗜読の書あり、夜の雨に帰りそびれては、一つ寝の枕に巫山の夢をむすび、日は物干の三竿に上りても、雨戸一枚、屏風六曲のかげには、不断の宵闇ありて、尽きせぬ戯れのやりつづけも、誰憚らぬ此のかくれ家こそ、実に世上の人の窺ひ知らざる壺中の天地なれと、独り喜悦の笑みをもらす主人は、抑も何人ぞや、昭和の卯のとしも秋つ方、ここに自らこの記をつくる荷風散人なりけらし、
  長らへてわれもこの世を冬の蠅」(2/10/21)

蓋し名文というべきであろう。こんなわけで荷風はお歌に出会ったことで青春が戻ったように感じたに違いない。その喜びを次のように表現している。

「薄暮お歌夕餉の惣菜を携へて来ること毎夜の如し、此の女芸者せしものには似ず正直にて深切なり、去年の秋よりつらつらその性向を視るに心より満足して余に事へむとするものの如し、女といふものは実に不思議なるものなり、お歌年はまだ二十を二つ三つ越したる若き身にてありながら、年五十になりてしかも平生病み勝ちなる余をたよりになし、更に悲しむ様子もなくいつも機嫌よく笑うて日を送れり・・・余既に老境に及び芸術上の野心も全く消え失せし折柄、且はまたわが国現代の婦人の文学政治などに熱中して身をあやまる者多きを見、心ひそかに慨嘆する折柄、ここに偶然かくの如き可憐なる女に出会ひしは老後の幸福といふべし、人生の行路につかれ果てたる夕ふと巡礼の女の歌うたふ声に無限の慰謝と哀愁とを覚えたるが如き心地にもたとふべし」(3/2/5)

この年荷風は五十歳に達せんとしていた。その年にしてかかる慰謝を得んとは望外の幸せだと言う喜びが伝わって来るようである。壺中庵に移って更に半年後の昭和三年三月、麹町三丁目の待合蔦屋が売りに出されたのを、お歌が荷風に買い取ってもらってそこで幾代という待合を始めることになった。荷風はいよいよ妾宅に通う好色老人から妾に商売をさせて自分は安閑と暮らすスケコマシ老人のような形になったわけである。

この待合は、荷風の日記から推察して結構繁盛したようだ。それにはお歌に経営の才覚があったようである。そんなお歌の経営者としての活躍ぶりを感じさせる記述がある。

「晩間オリンピアに飯して三番町に往く、図らず一事件あり、之がために亦図らず小星の為人余が今日まで推察せしところとは全く異なりたるを知り密かに一驚を喫したり。かの女その容姿は繊細にして、挙動婉順に見ゆれど、内心剛胆にして物におどろかず、天性頴悟敏捷にして頗権謀に富むこと男子に勝る所あり、人は見かけによらぬとの諺はあれど余は今日までかくの如く外見内心の相反したる女子を看たることなかりき」(5/1/9)

これはおそらく筋の悪い客に対するお歌の振舞いぶりの果敢さに感心したものであろう。お歌は無銭飲食をされかかった三人組の客に対して、二人を人質に取ったうえで、一人に金の算段に赴かせたこともある。彼女は商売のことになると、男勝りを発揮したようである。

ところが突然荷風に対して不可解な行動を取るようになる。荷風はとぼけているが、それは荷風の病気である女狂いが激しくなったことに対するお歌の嫉妬に根差していたようである。

「番街の小星昨夜突然待合を売払ひ左褄取る身になりたしと申出でいろいろ利害を説き諭せども聴かざる様子なれば、今朝家に招きて熟談する所あり、余去年秋以来情欲殆消磨し、日に日に老の迫るを覚るのみなれば女の言ふところも推察すれば決して無理ならず、余一時はこの女こそわがために死水を取ってくれるものならめと思込みて力にせしが、それもはかなき夢なりき」(5/2/14)

荷風はこんなふうに言って、自分の知らない理由でお歌がわけのわからぬことを言っているかのように語っているが、実は自分に原因があることを十分承知していたはずなのだ。その頃に、荷風は山路さん子という女とべったりくっつくようになっており、それを頭のよいお歌に察せられたというわけなのである。その挙句お歌は病気になった。あるいは病気を装って荷風を困らせようとした。

「晩餐の後雨の晴るるを見て小星を訪ふ、小星余の帰るを送りて麻布に至らむとする途中、車上俄に発病、苦悶のあまり昏眩絶倒す、家に至るやただちに番町芸妓検番出入りの医師柳川氏を招き応急の手当てをなさしむ、然れど何の病なるを知ること能はず」(6/6/24)

これは嫉妬からくるヒステリーのようなものである。それを荷風はこんな風に遠回しに描いている理由は、自分とお歌との関係を安っぽく見せたくなかったからだろう。

「病婦は其身不治の難病に罹かりしを知らず、一時余と別れ病を養ひし後再び左褄取る心なるが如し、過日大石国手の忠告によれば病婦は遠からず発狂すべき恐あれば今より心して見舞にも成りたけ行かぬやうにせよとの事なり、されど此の年月の事を思返せば思慕愛隣の情禁ずべくもあらず、病婦やがて発狂するに至らばその愛狗ポチが行方もいかに成行くやと哀れいや増すばかりなり、去年今夜の如く暑かりし夜には屡ポチを伴ひ招魂社の樹陰を歩みたりしに、其の人は生きながらにして既に他界のものに異ならず、言葉を交ゆるも意思を疎通することさへかなはぬ病者となり果てたり」(6/8/26)

最終的な破局は、お歌と出会ってから四年後の昭和六年八月末にやってきた。その時の荷風の気持は未練たっぷりだったようである。おそらく山路さん子との関係は軽い遊びのようなもので、お歌とは別れる気持ちがなかったのだと思う。だからこそ荷風は、お歌と別れた後でも、彼女にこだわり続けるのである。

「夕餉の後番街に往く、図らずお歌の両親に逢ふ、お歌との関係今夕にて一まづ一段落を告ぐ、悲しいかな」(6/8/31)






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