あ・うん:降籏康男

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降籏康男の1989年の映画「あ・うん」は、向田邦子脚本の人気テレビドラマを映画化したものだが、一見して締まりのない作品である。これは原作がそうなのか、あるいは降籏の演出に理由があるのか、原作を見ていない小生にははっきりしかねる。ただこの映画の役を演じさせられた高倉健にとっては、イメージをこわされかねない危険がある。

というのも高倉演じる男は親友の女房に横恋慕する一方、自分の女房をほったらかしにしたり、芸者を身請けして妾にしたり、鼻の下の長い、やにさがったイメージに描かれている。これでは高倉健も台無しだ。だいたいこの映画の中の高倉健は髪の毛を伸ばしていかにも俗物風なのである。

親友(坂東英二)とは軍隊の寝台仲間ということになっているが、彼らが兄弟なみに親密に付き合っているのは男同志の友情からというより、親友の女房(富司純子)への高倉健の異常な愛が三人を取り結んでいるというふうに伝わってくる。その女房にしてからがそんな高倉の愛を弄んで、左右に男を手玉にしていると喜んでいる始末なのである。

これはどう見ても不道徳な映画である。一人の女を二人の男が共有するというのは別に珍しいことではないが、その共有は通常微妙なバランスの上に成り立つのであって、そのバランスはいつまでも持つというわけではない。実際この二人の男は途中で破綻しかけるのであるが、その危機を乗り越えて再び結びつく。その結びつきを今度は、富司純子演じる女房ではなく、その娘(富田靖子)が取り持つというから面白い。しかもその娘は初恋の男への純情を貫くについて、高倉健の助力を得るということになっている。

というわけでじつに締まりのない映画なのでが、それでもなんとか見ていられるのは出てくるキャラクターたちが揃いも揃って底抜けの善人だからだろう。この映画の舞台は支那事変前後の暗い時代なのだが、その暗い時代にあって底抜けに明るく生きている人がいたというだけで、なんとか救われるような気持ちになる。

例によって憲兵とか特高警察とかが市民生活に干渉して威張りくさっている。威張られる市民の方ではそれを忍従しなければならない。権力は圧倒的な力を持っているのだ。権力に逆らうとまともに生きてはいけないということを誰もがわかっている。娘の恋人は特高警察に睨まれたあげく召集令状が来る。それはもはや生きて帰ってくることが期待できないことを意味している。特高に睨まれた人間が軍隊でどのような目に合うか、それは当時の常識だったということがこの映画からは伝わってくる。

それゆえ高倉健は親友の娘に向かって召集の挨拶にきた恋人について行って、心行くままに一夜を明かせと励ますのだ。それを不安そうに見ている両親に向かっては、娘の思いを遂げさせてやれ、それが彼らにとっては最後の一夜になるのだからと言い聞かせる。その言葉に娘の両親は心から同意するのだ。

そんなわけでこの映画は全体に締まりがないにもかかわらず、高倉健の演技が相変わらず光っているおかげで、観客をほろにがい感動に誘うというわけであろう。






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