2018年5月アーカイブ

デリダのレヴィナス批判は主に暴力についてのレヴィナスの議論に向けられている。レヴィナスは、人間が他の存在者について思惟するとき、それを自己の自同者としての同一化作用にひきつけて理解する。それは他者をそのあるがままの姿で受け入れるというのではなく、自己のある種の枠組みに無理やりはめ込むということだから、そこに暴力が働く。しかしこの暴力によっては他者はその本来の姿では捉えられず、かならず変容をこうむっているに違いない。それでは本物の他者を理解したことにはならない。本物の他者を理解するためには、暴力によってではなく、非暴力的に、言ってみれば平和的に他者を受け入れるのでなければならない。それは他者の存在をそのまま自由に放置しておくことを求める。放置された存在としての他者をその放置されたままに受け入れること、それが本当の他者の理解をもたらす。したがって暴力的な他者理解をやめて、平和的に他者を受け入れることが肝要である、というのが(デリダの解釈を通した)レヴィナスの基本的な考え方だ。

 学海先生は将軍慶喜の赦免を朝廷に哀訴すべく決意するや精力的に動いた。慶應四年二月十七日には諸侯の重臣を佐倉藩邸に招き、そこで慶喜のために哀訴すべきという議案を提出して一同の賛同を得た。賛同するものは譜代大名四十数藩。学海先生が哀訴状の作成を委任された。学海先生は哀訴状を作成したうえで諸藩の連判を求め、それを持参して急遽京都へ向かうことになった。
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ウィリアム・ワイラーは、1942年にある種の戦意高揚映画である「ミニヴァー夫人」を作ったが、戦後いち早く作った「我らの生涯の最良の年(The Best Years of Our Lives)」では、戦争が市民生活に及ぼした深刻な影響について反省している。アメリカ映画が戦争の意味を振り下げた作品を作るのは非常に珍しいことだ。ワイラーは、ユダヤ人であり、アメリカ人としての意識よりもコスモポリタンとしての意識が強く、そうした立場から戦争に向き合ったのだと思う。

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先日(五月二十七日)NHKが梅若実襲名記念能の番組を放映した。梅若実とは梅若六郎家の名跡となっていて、これが四代目だが、先代までは隠居号として用いられてきた。ところが新しくできる四代目は、この名跡で活躍する意向らしい。梅若流は、いまでは観世流に属しているが、もともとは丹波猿楽の古い家元で、明治時代の一時期には、独立した流派を張ったこともあった。六郎家と万三郎家が分流し、六郎家のほうが梅若の本流を継いでいるということらしい。ちなみに筆者は万三郎家筋のシテ方師匠から謡曲をならった。

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「達磨の耳かき図」も、「一休と地獄太夫図」同様、高僧と美女の戯れあう姿を描いたもの。高僧が美女にうっとりとしたり、浮かれたりするところを描くのがミソだ。

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1886年の夏にオンフルールで描かれた七点のうちの一つ。オンフルールの港とそこに係留されている船「マリア」号を描いている。この船は、オンフルールとイギリスのサザンプトン港を結ぶ定期航路を走っていたものだ。

小熊英二の大著「民主と愛国」は、日本の戦後思想を俯瞰したものだ。副題に「戦後日本のナショナリズムと公共性」とあるように、小熊は戦後思想の特徴をナショナリズムと公をめぐる議論に見ている。ということは、戦後日本思想がきわめて政治的な性格を帯びていたと見ているわけだ。それは日本という国をもっぱら政治的な関心から論じるということにつながるから、勢い論争的な色彩を強く帯びる。その論争はナショナリズムと公共性を軸に展開してゆくわけだが、ある時はいわゆる進歩派がナショナリズムを強く主張するかと思えば、ある時は保守的な勢力がナショナリズムを取り込むという形になる。こうした論争はある程度共通の地盤を前提にしている。そこから議論の連続性ということが生まれる。つまり議論の蓄積が行われるということだ。後から議論に参加するものは、先駆者たちの議論を批判することから自分の言説を展開するのである。これは丸山真男が指摘した日本思想の特質とは随分と異なっている。丸山は日本には固有の思想はなく、外国から脈絡もなく新しいとされる思想が輸入され、したがって思想の内容よりは、その新しさだけが評価の基準になるような倒錯した状況が続いてきたと言ったわけだが、ことナショナリズムを巡る議論の場合には、そういう指摘は当てはまらず、議論は一応共通の地盤の上で連続的に展開されるということになる。

 戊辰戦争の緒戦である鳥羽・伏見の戦いは慶應四年一月三日から六日までのわずか四日間の戦いで討幕勢力が完勝した。つまり幕府側が完敗したわけである。その幕府側は会津・桑名の藩兵が主力になっていた。鳥羽方面には桑名の藩兵が、伏見方面には会津の藩兵が中心に終結したが、それに対して討幕側は、鳥羽方面には薩摩藩兵が、伏見方面には長州藩兵が中心となって迎え撃つ形になった。朝廷の威光をかさにきた討幕側は幕府軍に撤退を求め、それでも歯向かうならば朝敵と見なして成敗すると通告したが、幕府側はそれに応じず、ついに戦端が開かれた。この戦いは数の上では幕府側が圧倒的に有利だったにかかわらず、あっさりと敗北した。それには淀・津両藩の寝返りなども影響したが、何といっても討幕側が近代的な兵器と規律の高さで優っていたという事情があった。幕府側は旧態依然とした刀・槍中心の戦い方で、指揮命令系統も徹底していなかったのである。
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ウィリアム・ワイラーの1942年の映画「ミニヴァー夫人」は、第二次大戦中に作られた数多くの戦意高揚映画の中の傑作と言うべき作品である。戦意高揚映画には一定のパターンがあって、残虐な敵から国土の安全と国民の命を守る自衛のための戦いだというメッセージを盛り込むのが常だが、ワイラーのこの作品は、そうした単純な戦意高揚を目的とはしておらず、もっと高い倫理的な視点から戦争の正当性を訴えたものだ。

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地獄太夫とは、一休さん伝説に出てくる遊女。一休さんが和泉の国の境の町である遊女と逢ったときに、その遊女との間で歌のやりとりをするが、そのうち遊女が名高い地獄太夫であることを知り、「聞きしより見て恐ろしき地獄かな」と詠んだところが、地獄太夫は「しにくる人の落ちざるはなし」と下句をつけた、と伝わっている話だ。

荷風は江戸芸術論中の演劇論「江戸演劇の特質」を、依田学海・福地桜痴らの批判から始めている。依田学海といえば今では殆ど知る者もないが、荷風が生きていた頃にはまだ演劇論者として知られていたようである。その依田学海らの演劇論の特徴を荷風は改良演劇とし称している。改良とは何をさして言うかといえば、それは従来の歌舞伎などのいわゆる江戸演劇が、音響や所作を中心にした様式的な特徴を持つに対して、セリフを多用したリアルなものでなければならないと主張するものである。依田学海はそれを活歴史劇と称した。リアルな歴史劇という意味である。つまり歴史的な出来事をありありと再現することを以て改良演劇の使命としたわけである。

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「オンフルールの夕暮」と題したこの絵は、オンフルールの町の西の郊外に広がる浜を描いたものだ。この絵でもスーラは、港町のたたずまいではなく、何気ない海景を淡々と描いている。

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ウィリアム・ワイラーの1940年の映画「月光の女(The Letter)」は、一種のサスペンス・ドラマである。原作はイギリスの小説家サマーセット・モームの短編小説。それに一部脚色して映画化した。イギリスの小説が原作だから、映画でもイギリス人が出てくることになっている。そのイギリス人たちはかつての植民地であるマレーシアに住んでいることになっており、そこを舞台にして事件が展開する。

中央公論の最新号(2018年6月号)に、山崎正和と苅部直の対談が載っていて、その中で山崎の直近の著作「リズムの哲学ノート」が話題になっている。山崎は今年84歳になるので、この本も80歳を過ぎてからの仕事だ。そのこと自体すごいなと感じるのだが、山崎はそのことを、つまり自分が年をとったことを自覚しながらこの本を書いたということに、また別のすごさを感じた。80歳を超えて一冊の、しかも哲学的な著作をすること自体のすごさもさることながら、80歳を超えた自分の老いを自覚しながら哲学し、それを文章にして一冊の著作にするというのは、いまや同じように老いんとしている筆者にとっては、つきせぬ驚きのタネである。

「哲学は昨日死んだのだ。ヘーゲルとかマルクス、あるいはニーチェとかハイデガー以来息絶えているのだ・・・哲学はある日、歴史のなかで絶命したのだ」(「暴力と形而上学」川久保照興訳)。「エクルチュールと差異」の第四論文「暴力と形而上学」はこんなショッキングな文章で始まる。レヴィナスを論じたこの論文でデリダが試みたのはだが、哲学の死をあらためて確認することではなく、死せる哲学の遺体から新しい命が芽生えていることに注意を促すことだったように思われる。その芽生えをデリダはレヴィナスに見ているようなのである。

 お盆がやって来た。小生の両親は一昨年に相次いで亡くなった。二月に父が入院先の病院で亡くなり、六月にはやはり病気で入院していた母が亡くなった。父が亡くなったときに、妹と一緒に母のもとに行きその死を報告したら、母はおいおいと声を出して泣いた。そしてそのわずか四か月後に自分自身が亡くなったのであった。ほぼ一時に両親をなくして、小生は心のどこかに穴が開いてしまったような気がした。
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ベティ・デーヴィスは、ハリウッドが生んだ最も偉大な女優の一人である。どこが偉大かというと、この女優はアメリカ男の願望を体現しているからである。芯が強く、たやすく男の言いなりになったりはしないが、いざ男に惚れると、その男のために徹底的に尽くす。惚れられた男にとっては、こんなに信頼できるパートナーはいない。そういう女こそ、開拓時代の厳しいアメリカでの生活に、もっともふさわしい伴侶なのだ。その素晴らしい伴侶を、ベティ・デーヴィスほど強く感じさせる女優はいないのである。それ故彼女は、ハリウッドの生んだ最も偉大な女優と言うに値するわけである。

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これは、蛙ならぬ猫を眺め入っている美人を描いた一枚。美人は横たわって、両肘をついて顎を支えた姿勢で無心に猫の姿に見入っている。猫のほうは人に見られているのが気にならぬようで、何事もないようにうずくまっている。もっとも美人のように寝そべっているわけではないので、多少の緊張は感じているのかもしれぬ。

イスラームというと、筆者も含め大方の日本人にとっては、西洋的な価値観とは異なる独特の価値観をもとに、西洋文明と厳しく対立し、自らの主張を通すためにはテロなどの暴力も辞さないというようなイメージが流通している。実際近年世界中を騒がしてきたアルカーイダとかISとかいったものは、イスラームの申し子のようなものとして受け取られている。そこからイスラームはテロのイメージと結びつき、すべてのイスラーム教徒がテロリストではないが、テロリストはすべてイスラーム教徒であるといった言説が横行している。

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1886年の夏、スーラはセーヌ河口の港町オンフルールで過ごし、そこで七点の風景画を仕上げた。スーラは、冬はアトリエで大画面の絵に取り組み、夏は野外で比較的小規模なキャンバスに風景画をスケッチするという伝統的なスタイルを踏襲していたのである。

 王政復古のクーデターが起きて討幕派が政治の主導権を握ったのは十二月九日のことであった。その情報の第一報が学海先生の耳に届いたのは十四日のことであった。この時点では情報はまだ断片的だった。学海先生の日記には、
「去る十日、長・防等入京の命あり、官位如故。九門の警衛を薩・土・芸・尾・越前とともに命ぜられて、既兵端を開くべきの形勢あり。将軍家危うきこといふべからず。忠節を存ずるものはすみやかに登京すべしとなり」とある。
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スタンリー・キューブリックはスピルバーグと並んでSF映画の草分けと言われ、スピルバーグとは親しく付き合っていた。そのスピルバーグが宇宙人との平和な共存をテーマにしたどちらかと言うとソフトな映画を作ったのに対して、キューブリックはハードな暴力を好んで描いた。1971年の作品「時計じかけのオレンジ」はキューブリックの暴力映画の代表というべきもので、少年の暴力とそれを巧みにコントロールしようとする権力の野望を描いている。

セクハラ罪という罪はない、と言ったのは放言居士として知られる麻生太郎副総理兼財務大臣だが、彼の盟友である安倍晋三総理大臣は、これを安倍内閣の公式見解としたそうだ。内閣が閣議でそう決定したわけだから、世の中のセクハラ亡者たちは、今後胸を張ってセクハラが出来ると喜んでいるだろう。セクハラは罪にはならないんだから、安心してセクハラが出来るというわけだ。

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幕末から維新前後にかけては美人画の浮世絵が流行ったこともあって、暁斎は美人画を多く手掛けている。結構需要があったのだろう。ほかのジャンルの絵同様、美人画にも戯画の調子が感じられる。そこが暁斎らしいところだろう。

江戸芸術論中狂歌を論ずる一文の冒頭を荷風は次のように書いている。「一歳われ頻りに浮世絵を見る事を楽しみとせしが其の事より相関連して漸く狂歌に対する趣味をも覚ゆるやうになりぬ」と。つまり荷風は狂歌を浮世絵と関連させて見ているわけである。両者は互いに切っても切れない縁にある。それが荷風の受け取り方だった。

歌手の西城秀樹が亡くなった。享年六十三というから筆者よりも六つも若い。自分より若い人が死ぬと、今度は自分の番かと思ったりもする。年をとるとはそういうことなのだろう。

度重なる放言・暴言で世間を騒がし続けている麻生太郎副総理兼財務大臣が、また放言をしたというので世間を賑わしている。今度は自分が率いる派閥の政治資金集めのパーティで講演した際に、「暗いヤツを選ぶか、頭の悪いヤツを選ぶか、だったら、おなかの悪いヤツが一番いいぐらいじゃねぇか」と言ったそうだ。この発言は、2012年に行われた自民党総裁選に関連したもので、「暗いヤツ」は石破茂、「頭の悪いヤツ」は石原伸晃、「おなかの悪いヤツ」は安倍晋三の各氏をさすそうだ。

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1885年の夏、スーラはノルマンディーに滞在して、そこの風景を描くうちに、点描法の試行を行った。「オック岬」と題したこの絵は、その成果である。スーラがこの作品を通じて行おうとしたのは、色彩を個々の色の点の集合として表現することであったが、この絵をよく見ればわかるように、まだ本格的な点描画とは言えない。ブラシを横に掃いたようなタッチが目立つことから、この時点では、点描画というよりは、洗練されたバレイエ画法と言った方がよい。しかし、ここで点描のこつをつかんだスーラは、グランド・ジャット島の描きなおしの作業を通じて、点描法をさらに洗練させてゆく。

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1979年のアメリカ映画「エイリアン(Alien)」は、SFホラー映画の古典的作品だ。太陽系以外の惑星で遭遇した生物体が人間の宇宙船に乗りこんで、船員たちを次々と襲撃して殺すというもので、不気味な生物に襲われる人間の恐怖を描いている。この生物が人間とは全く異なった形状・性質を持っているというのがミソだ。太陽系以外の生物で人間と対抗できるようなものは、人間に似たいわゆる異星人あるいは宇宙人として表象されるのがそれまでの常道だったが、この映画の中の異星生物は、卵生で恐竜のような形状をしているにかかわらず、人間を恐怖支配するほどの知性を持っているとされている。人間が恐竜に狩りされるといったイメージを喚起するわけで、そこが見ているものになんともいえない恐怖心をもたらすのである。

今回米朝対話へ向けての機運が高まったことについて、トランプはこれを、米側による最大限の圧力に北朝鮮が屈した結果だと言っている。日本の安倍政権もその見方を共有し、日本を含めた国際社会が最大限の圧力をかけてきた成果が現れたもので、今後もその圧力を弱めるべきではないと主張している。

エドモン・ジャベスはエジプト育ちのユダヤ人であり、詩人である。だからジャベスを論じようとしたら、ユダヤ人とは何か、詩人であるとはどういうことか、について論じることになりがちだ。それに加えてエジプト的なものも問題になるだろう。デリダがこの短い論文のなかで言及しているものそういうことだ。デリダは冒頭から次のように宣言するのだ。「ジャベスがわれわれに告げようとするのは・・・書くことの誕生と情熱としての或るユダヤ思想に関することである。それは書くことの情熱であり、文字と愛と忍耐力であり、その主題はユダヤ人なのか、あるいは文学そのものなのか、を言うことのできないものである」(阪上脩訳)と。

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アメリカがエルサレムに大使館を移転したことがきっかけでパレスチナに緊張が高まり、ガザの住民がイスラエル軍に攻撃された。死者は六十人以上、負傷者は二千七百人以上と言われ、近年では最大規模の犠牲が出た。テレビ報道等で流れてくる映像を見ると、生まれたばかりの子どもまで標的になっているこの虐殺は、ホロコースト以外の何物でもないと感じさせられる。

 学海先生が兵制改革に携わったと言ったが、それにはそれなりの背景があった。十一月二日に幕府は諸侯八十四家に江戸城内外の警護を命じた。佐倉藩は雉子橋の警護を命じられた。それには浪士が江戸市中に放火して庶民を不安に陥れようとしているとの噂が市中に流れたために、庶民の不安を鎮めるという意味もあった。そしてその陰謀の陰には薩摩藩ら討幕勢力の動きがあると広く信じられていた。そこで親藩・譜代を中心に兵を江戸に集めて討幕勢力の動きに対抗したわけである。しかし諸藩がばらばらに行動するより一致して行動する方が有効だ。そのためには諸藩の兵制を統一して、できれば一元的に運用した方がよい。そういう判断があって兵制改革の議論が起こったわけなのであった。
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アメリカ映画「2001年年宇宙の旅(A Space Odyssey)」は、宇宙を舞台にしたSF映画の古典である。未だに人気があるというから映画としては非常に長い生命を保っていることになる。人類の夢を物語っているからだろう。

官僚劣化

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中央公論の最新号(2018年6月号)が、「官僚劣化」と題して、最近の日本の官僚たちの不祥事に代表されるような官僚の劣化について特集している。かつては日本という船の舵取り役として自他共に認め、認められていた日本の官僚が、何故ここまで劣化してしまったのか。何人かの論者が、それぞれの視点から分析している。それを読むと、首相官邸が強くなったために、相対的に各省の力が弱くなり、それに伴って各省の官僚統制力が弱まって、官僚たちが直接官邸のほうを向いて仕事をするようになったとか、かつてはどんな官僚も持っていた国家国民のために働いているという気概が薄くなり、もっぱら自分自身の出世の為に働く自分本位で小粒な官僚が増えたとか、いろいろな指摘があって面白い。

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河鍋暁斎は、妖怪や地獄の絵と並んで、極楽往生の様子も描いた。「北海道人樹下午睡図」と題するこの大作は代表的なものだ。普通の釈迦の涅槃図とは異なり、遊び心が込められている。その遊び心は、涅槃に午睡の字を当てているところにもうかがえる。この絵は釈迦ならぬ北海道人が樹下に昼寝をしている様子を描いているのだ。

井上達夫の憲法改正私案には徴兵制の規定が盛り込まれている。その趣旨を井上は、徴兵制によって戦力の濫用を防ぐためだと言っている。「志願兵制だと、志願する必要などないマジョリティたる国民が無責任な好戦感情に駆られたり、政府の危険な交戦行動に無関心になりやすい。無謀な軍事行動に対してすべての国民が血のコストを払わなければいけないとなると、国民は軍事行動の監視と抑止の責任をもっと真剣に引き受けることとなる」というわけである。

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「ラ・グランド・ジャット島の日曜日」は、スーラにとって大展開をもたらす作品になったばかりか、ヨーロッパの絵画史に転機をもたらすものとなった。この作品によって、点描画がほぼ完成された形で示され、人々はこの絵に、印象派に続く新しい時代の夜明けを感じたのである。

 徳川慶喜が京都で大政奉還を上表したのは十月十三日であるが、江戸の学海先生にその情報が伝わったのは二十日のことだった。この日は諸藩の留守居仲間の親睦会が春南冥の家で予定されており、先生は朝方そこへでかける前に、京都で大事件が起こり郡山や松代の諸藩がつぎつぎと上洛していると聞いた。南冥の家につくと北沢冠岳から更に詳しいことを聞かされた。将軍が自らの不徳を恥じて政権を朝廷に奉還したというのだ。先生はこれを聞いて大いに驚き、席を立とうとしても足腰が立たないほど狼狽した。
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「テルマエ・ロマエ」は、人気漫画を映画化した作品で、いかにも漫画天国といわれる日本らしい作品だ。ローマ時代の公衆浴場設計家であるルシウスが現代日本との間を往復して、日本の温泉のアイデアをローマに適用して人気を博したあげく、皇帝ハドリアヌスから高い評価を受けるというような、荒唐無稽ではあるが、面白いアイデアを描いたものだ。

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これは浄玻璃鏡に映った罪人たちの生前の所業を確認している閻魔大王の様子を描いたもの。先にとりあげた地獄極楽図のうち、閻魔大王と浄玻璃鏡をアップにして描いたものだ。

荷風文学の著しい特質は古き日本への懐古趣味にある。江戸芸術論はそんな荷風の懐古趣味を学問的な体裁のもとで表明したものである。とは言っても、学問というものを軽蔑していたらしい荷風のこと、理屈ばったものの言い方はしない。自分の直感を他人にもわかりやすく説明したものというくらいに受け取ったほうがよい。学問の原点というものは、自分の意見を他人にもわかりやすく説明することだからである。江戸芸術を論じる荷風の語り口は実にわかりやすい。

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スーラは1884年、24歳にして最初の大作「アニエールの水浴」を制作し、その年の官展に出品したが落選した。そこで同年春に催された第一回アンデパンダン展に持ち込んだところ、大いに注目された。自然主義からの移行を示す画期的な作品として評価されたのである。

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大林宣彦の2014年の映画「この空の花 長岡花火物語」は、副題にもあるとおり、長岡名物の花火を中心にして、それに第二次大戦末期の米軍による長岡大空襲とか、さらにその前に長岡が体験した戊辰戦争とかを絡めて、戦争の意味を考えさせるとともに、2011年の3・11についても言及している。随分雑多な要素を盛り込んだわけだが、大林本人としては、地震のような天災がある意味避けがたいのに対して、戦争は人災であって、人間の知恵で避けられるということを訴えたかったようである。

北朝鮮をめぐって劇的な変動が起きている中で、安倍晋三はなんとか存在感を保とうとして必死になっているようだ。いままで放置してきた拉致問題を、急に持ち出したのもそのひとつのあらわれだろう。ここで拉致問題を表面に出すことは、少なくとも国内向けには一定のアピールになる。実際拉致被害者の家族団体は、安倍晋三が急に拉致問題に熱心になったことに期待しているし、大方の日本人も悪くは受け取っていない。

フーコーが「狂気の歴史」において企てたことは、狂気について、狂気そのものを語るということだった、とデリダは解釈する。しかしそんなことはできない相談だとデリダは言う。「<狂気そのものを語る>という表現は、それ自体が矛盾しています。客観性のなかへ追放してしまわずに狂気を語るということは、狂気をしてみずからおのれを語らせるということです。ところが狂気というものは、本質的に語られないものなのです」(野村英夫訳、以下同じ)

 慶応三年の後半は幕末史最大の山場となった時期だ。幕権派と討幕派の対立が最高潮に達し、大激動ともいうべき混乱を経て、大政奉還とそれに続く王政復古の大号令が鳴り響き、倒幕派の勝利のうちにクライマックスを迎える。ここに徳川封建時代は終わり、新しい時代が幕を開けるというわけである。
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降旗康男の2004年の映画「赤い月」は、作詞家中西礼の同名の自伝的回想記を映画化したものである。筆者は原作を読んでいないので比較は出来ないが、映画を見る限り、中西の家族の満州での生活と、敗戦後における引き上げをテーマにしている。この手の話題はとかく引き上げの苦労話に収斂し、エモーショナルなものになりがちなのだが、この映画を見る限りは、社会的な視点を強く感じさせ、日本側の加害責任とか権力の無責任ぶりが取り上げられている。

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河鍋暁斎は幽霊の絵とともに地獄の絵もよく描いた。幽霊と地獄の間にどんな関係があるか、いまひとつはっきりしないが、幽霊の方が日本古来の迷信に根差しているのに対して、地獄のほうは仏教、とりわけ浄土信仰と密接な結びつきがあったことは言えるようだ。地獄は浄土の正反対として、成仏できない罪深い人たちが落ちてゆくところとしてイメージされていた。そういう目に合わないためにも、人は阿弥陀様を深く信仰せねばならぬと言いきかれてきたわけだろう。

井上達夫と小林よしのりの対談「ザ・議論」の三つ目のテーマは、憲法九条問題である。これについて井上は、憲法九条削除論を唱える。井上は、憲法九条を削除して、安全保障政策は民主的立法にゆだねるべきだと主張する。そうすると戦争への歯止めがなくなるのではないかという疑問が出てくるが、それに対して井上は、憲法九条を削除するとともに、戦力の保持を前提として、その戦力の統制にかかる規定を憲法で明記することで、かえって戦争の抑止が可能になると言う。いまの状況では、憲法九条があるために、戦力統制に事実上憲法の制約が利かない状態になっている。つまり戦力の行使が、何らの制約も受けないままに、なしくずしに拡大していく可能性が生じている。憲法九条を削除して、戦力統制にかかる基本的な事項を憲法に明記することではじめて、民主的な戦力のコントロールができると考えるわけである。

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ジョルジュ・スーラ(Georges Seurat 1859-1891)は、31歳の若さで死んだ。したがって彼の画家としての実質的な活動期間は10年にも満たなかったが、美術史上には大きな足跡を残した。彼が若い画家として登場した1880年代は、印象派の円熟期であり、次の時代への鼓動がそろそろ聞かれた時代であった。そうした時代背景にあってスーラは、印象派の次の世代を担うチャンピオンの一人として名声を確立したのだった。彼が「グランドジャット島」を制作したのは25歳の時である。スーラ独自の手法である点描法を駆使したこの作品を完成させてから死ぬまでのわずか数年の間が、彼の画家としての本格的な活動期である。この短い期間にスーラは、実験的な作品を含め、数々の作品を送り出した。

 学海先生は五月の下旬以来勘定奉行小栗上野介にたびたび呼び出された。小栗は勝海舟と並んで幕末期の幕臣を代表する人物だ。安政七年の遣米使節団に目付け役として参加し、米国人を相手に堂々と振舞ったというのであたかも使節団の代表の如く受け取られたというから、押し出しの強い男だったようである。その押し出しの強さで幕政を改革し徳川幕府の権威を再興しようとした。彼の業績として知られているのは幕府兵制の改革と製鉄所の建設である。特に幕府兵制の改革は画期的なものだった。それを単純化して言うと、従来旗本ら家臣団に現物の軍役を課していたことに代え石高に応じて金納させ、その金で幕府の軍隊を近代化しようというものだった。この試みは広範な反響を呼び佐倉藩にもその波が伝わってきたから、学海先生も小栗の兵制改革にはかねて注目していたところだった。
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緋牡丹博徒シリーズは、1960年代末から70年代初頭にかけて計八作が作られ、いずれも大ヒットした。東映やくざシリーズのなかでも異色のシリーズだ。映画の中のやくざといえばマッチョでセンチな男たちが義理と人情のはざまで悩みながら、悪を亡ぼし正義を実現するというのがパターンだが、緋牡丹博徒シリーズは女だてらにクールなやくざが、悪党どもを次々と退治するというもので、その聊か倒錯した振舞い方が全国の観客を魅了した。

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風神雷神図は、琳派や狩野派が好んで描いたが、河鍋暁斎も狩野派のはしくれとして手掛けた。風神雷神図は非常に人気があったので、注文も多かったのだろう。暁斎は数多く手掛けている。この図はそのなかでももっとも有名なものだ。

馴染を重ねたる女一覧表の十四番目山路さん子は、関根うたとの交際末期に付き合うことになり、それがもとでうたとの関係にひびが入り遂に破局したことは前に触れたとおりだ。荷風がこの女と出会ったのは昭和五年一月中のことと思われ、その後同年八月に千円で見受けし、四谷追分の播磨屋に預けていたが、翌昭和六年九月に手を切っている。関根うたと手を切ったのは同年八月末のことであるから、荷風は二人の女をほぼ同時に失ったことになる。そのうちの一人関根うたは、一度は自分の老後を託そうと思ったほど大事にしていた女だった。

トランプが在韓米軍の縮小を検討するよう指示したとニューヨークタイムズが伝えた。どの程度縮小するのか、あるいは完全に撤退するのか、そこまではまだ伝わってこない。しかし、何らかの形の縮小はありうると考えていいようだ。

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ロートレックの最後のポスター作品は1900年の「ラ・ジターヌ」である。これは、アルフレッド・ナタンソンから依頼された仕事で、ジャン・リシュパンの戯曲「ラ・ジターヌ(ジプシー女)」の舞台化を宣伝することを目的としていた。その舞台では、ナタンソンの妻マルト・メロが運命の女を演じることになっていた。

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1960年公開の映画「不知火検校」は、勝新太郎主演の時代劇やくざ映画である。座頭をテーマにしていることで「座頭市物語」シリーズを思わせるが、直接の関係はない。しかし勝による座頭のイメージが強烈で、かつ似たところもあることから、座頭市物語のさきがけのように受け取られている。筆者自身長い間この映画を座頭市シリーズの一つ、それも嚆矢をなすものと勘違いしていたほどである。

北朝鮮をめぐる国際関係がドラスティックに変化していく中で、安倍政権は後手後手どころか、蚊帳の外に閉め出されているかのような状態だ。このままではみっともないと思ったのだろう、安倍晋三は大向こうに対して強がって見せ、このたび北朝鮮が軟化したのは、我々(つまり安倍晋三自身)が見せてきた圧力の方針に北朝鮮が屈服した結果だなどと、およそ説得力のない言訳をしている。

「エクリチュールと差異」に収められた第二論文「コギトと『狂気の歴史』」は、題名から推測できるように、フーコーの著作「狂気の歴史」への注釈である。批判ではなく注釈というのは、デリダはフーコーの弟子を以て任じており、師匠を批判するなどもってのほかと考えているらしいからだ。デリダは言う、「この弟子意識というものは・・・不幸なる意識となるのであります・・・まだものの話し方もわきまえていないために、とりわけ口答えなどしてはならない子供のように、いつももう間違いを抑えられているような気がするものなのです」(野村英夫訳、以下同じ)。したがって弟子が師を論じるときには、それは批判ではなく、注釈になると言いたいわけであろう。

 人事異動後あかりさんとデートしてしばらく経った頃、彼女から職場に電話があった。
「ねえ、今晩時間とれる?」
「なんとか工夫すればとれると思うけど」
「演奏会の切符が二枚手に入ったの。マーラーのシンフォニー第一番。今売り出し中のダニエル・ベンヤミンの指揮。ベンヤミンって知ってるでしょ?」
「ああ、聞いたことはあるよ」
「急で悪いけど一緒に聞きにいかない?」
「ああ、いいよ」
「場所は上野の文化会館なの。今夜六時に演奏開始だから、その一寸前に文化会館の一階のロビーで会いましょう」
「わかった」
 こうして我々はその日の夕方五時半頃文化会館一階のロビーで会ったのだった。
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座頭市物語シリーズは俳優勝新太郎の当たり役として大人気を博し、26本も作られた。寅さんシリーズをのぞけばもっとも多い。どの回も盲目の検校姿のやくざ座頭市が気ままな旅の途中土地のやくざのもとにわらじを脱いだことがきっかけで、やくざ同士の抗争に巻き込まれるところを描いている。座頭市は目こそ見えないものの、人の動きを掌にあるようにつかみ、当たるところ敵なしの強さを発揮する。その姿がかっこいいというので日本中の拍手喝さいを浴びたものだ。

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画面の中央に描かれている狐は九尾の狐といって、中国の伝説上の怪物である。それが日本に伝わって様々な伝説と結びついたが、なかでも謡曲「殺生石」で語らえている伝説が有名である。それによると、九尾の狐は中国では妲己となって殷王朝を亡ぼし、天竺では華陽夫人となって残虐の限りを尽くし、日本では玉藻の前となって鳥羽上皇をたぶらかそうとしたが、見破られて那須野の殺生石に封じ込められたということになっている。

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