黒蘭の女(Jezebel):ウィリアム・ワイラー

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ベティ・デーヴィスは、ハリウッドが生んだ最も偉大な女優の一人である。どこが偉大かというと、この女優はアメリカ男の願望を体現しているからである。芯が強く、たやすく男の言いなりになったりはしないが、いざ男に惚れると、その男のために徹底的に尽くす。惚れられた男にとっては、こんなに信頼できるパートナーはいない。そういう女こそ、開拓時代の厳しいアメリカでの生活に、もっともふさわしい伴侶なのだ。その素晴らしい伴侶を、ベティ・デーヴィスほど強く感じさせる女優はいないのである。それ故彼女は、ハリウッドの生んだ最も偉大な女優と言うに値するわけである。

ウィリアム・ワイラーの1938年の映画「黒蘭の女(Jezebel)」は、そんなベティ・デーヴィスの代表作である。筆者がこの映画を見たのは高校生の時であったが、実にすごい女性だと感動したことを覚えている。自分が女に惚れられるとしたら、こんな女に惚れられたいと、高校生ながら思ったほどだった。もっともベティ・デーヴィスのように強烈な自己意識を持ちながら男を虜にするような女性は日本人の間にはいなかったので、筆者は高校生時代に抱いたあこがれを実現することができなった。非常に残念としか言いようがない。

この映画は南部アメリカ、それも南北戦争直前の時代の南部アメリカのルイジアナが舞台である。その頃の南部アメリカ諸州には奴隷制が盛んに行われていて、この映画の中にも、白人たちが黒人奴隷を自分たちの私有財産として所有するのは当然と言った考え方が伝わってくるようになっている。南部アメリカの白人社会には、他にもいろいろな悪徳が栄えていて、そうした悪徳を主人公のベティ・デーヴィスも共有している。それらの悪徳は北部の人間から見ると野蛮さのあらわれでしかない。実際北部出身の女性に、その野蛮さを指摘させている。つまりこの映画の中では、南北戦争直前における南北間の価値の争いという側面も描写されているのである。

ベティ・デーヴィスは自尊心の塊のような女で、その自尊心を婚約者のヘンリー・フォンダに向けるばかりか、南部の社交界の人々まで徴発する。彼女がこんな態度を公然ととって自ら怪しまないのは、当時のアメリカでは女が希少価値を持っていて、多少の我儘は許されていたという社会背景を反映しているのだと思う。とにかく彼女は自分が女であることの特権を最大限利用して、めいっぱい我儘を通すのである。

そんな彼女に婚約者のフォンだが愛想をつかし、北部へ去ってしまう。これは彼女にとっては大誤算で、まさか自分の我儘が婚約者を去らせるとは思ってもいなかったのだ。そこで彼が一年ぶりに南部に戻ってきたと知るや、彼の前でしとやかに振る舞い、再び彼の愛を獲得しようと決意する。ところが意外なことに、彼は妻を同伴してきたのだった。

自尊心を傷つけられて混乱しながらも、ベティ・デーヴィスはあらゆる手段を使ってフォンダを自分のものにしようと企む。女の執念だからすさまじい。ところがフォンダはそんな彼女を受け入れない。拒絶された彼女はますます意地を張るばかりである。彼女の意地は周囲の男たちにも感染し、互いに殺しあいをさせるほどなのだ。

そんな折にフォダだが黄熱病にかかって倒れる。実は当時の南部アメリカでは黄熱病が猛威を振るっていたのだ。この病気は致死的でしかも伝染力が強いために、患者を無人島のようなところに隔離する政策がとられていた。ヘンリー・フォンダも例外ではない。馬車に乗せられて無人島に運ばれることとなる。それにフォンダの妻が付き添いたいと申し出るが、ベティはそれを制止し、自分がフォンダに付き添って彼の面倒を見ようと提案する。その提案は妻によって受け入れられる。かくしてベティは、瀕死のフォンダに付き添って、無人島へと向かっていくのである。

とう具合にこの映画は、ベティ・デーヴィスという女性が体現した古き時代のアメリカ女性の生き方を実に細やかに描き出している。ベティ・デーヴィスが映画の中で演じていることは、単に彼女の彼女らしさばかりではない。アメリカ人が女性の理想像とするものを、一身に体現しているのである。

この映画を作ったウィリアム・ワイラーはユダヤ人であるが、白人の黒人への差別感情については特に反応していない。というより、この映画には人種差別を感じさせるところは、表立ってはない。黒人は人間とは見なされておらず、犬や家畜と同格のものと見られているからだろう。人間が家畜を使役したとしても、それは迫害とか差別とは言わない。

原題の「ジェゼベル」は、聖書に出てくる毒婦のことで、映画でもそのことに関する言及がある。アメリカ女性の芯の強さは、見る者によっては毒婦のようなアクの強さとも映るようである。






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