学海先生の明治維新その廿五

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 人事異動後あかりさんとデートしてしばらく経った頃、彼女から職場に電話があった。
「ねえ、今晩時間とれる?」
「なんとか工夫すればとれると思うけど」
「演奏会の切符が二枚手に入ったの。マーラーのシンフォニー第一番。今売り出し中のダニエル・ベンヤミンの指揮。ベンヤミンって知ってるでしょ?」
「ああ、聞いたことはあるよ」
「急で悪いけど一緒に聞きにいかない?」
「ああ、いいよ」
「場所は上野の文化会館なの。今夜六時に演奏開始だから、その一寸前に文化会館の一階のロビーで会いましょう」
「わかった」
 こうして我々はその日の夕方五時半頃文化会館一階のロビーで会ったのだった。
 彼女はこの日はベージュ色のスーツを着て現れた。学校から直行したというから仕事着のままというわけだ。開演まではまだ少し時間があるが、二階のカフェでお茶を飲んでいる余裕まではない。そこですぐ演奏会場に入って席に腰掛けた。
「急な話でごめんなさいね」
 隣り合わせに座ると彼女は小生の方を向いてそう言った。
「友達から貰ったのよ。それが今日のことだったの。演奏会なんて最近行ってないし、あなたへのお祝いにもいいかなと思って、貰うことにしたの」
「お祝いしてもらうほどの出来事もなかったけどね」
「でも新しい仕事につけて気分転換にはなったんでしょ?」
「それはそうだけれど」
「それならお祝いするに値するわ」
「とにかくお礼を言うよ」
 そういうわけで我々は今売り出し中の指揮者ダニエル・ベンヤミン指揮になるボストン交響楽団のマーラー第一番を聞いたのだった。彼女は滅多に演奏会に行かないと言っていたが、小生も同様だった。久しぶりに聞くナマのマーラーは迫力があった。
 演奏会が終わった後、我々は上野公園内にある会席料理屋に入って食事をした。ウナギが売り物の店だ。
「どお、よかった?」と彼女から聞いてきた。
「なかなかよかったよ。マーラーを聴くのは久しぶりだ」
「マーラーって独特の感じだよね。一応ドイツ的な音楽だけどそれをはみ出すところがあるみたいで、なんとなくオリエンタルな感じもする」
「マーラーってユダヤ人だから、ユダヤ的な旋律が入っていて、それが君の言うオリエンタルな感じを醸し出すんじゃないのかな」
「ユダヤ的旋律ってどんな感じなの?」
「屋根の上のバイオリン弾きって映画を見たことある?」
「あるわ」
「あの映画の中の音楽が独特な旋律に聞こえるだろう?」
「ええ」
「それがユダヤ的な旋律ってやつなんだ。今日の曲の中でも、第三楽章で出てきた。ほら葬送曲のあとでいきなり変なメロディが聞こえてきただろう?」
「ええ」
「あれがまさにユダヤ的な旋律なんだ。ヨーロッパの音楽であんな旋律を取り入れているのはマーラー以外にはない」
「それはマーラー以外にユダヤ人の作曲家がいないってこと?」
「そんなことはない。オッフェンバッハとかメンデルスゾーンだってそうだ。ガーシュインやシェーンベルグもユダヤ人だ。こう言った人々もかなりユニークな曲を書いているがユダヤ的な旋律をストレートに採用しているのはマーラー以外ないのじゃないかな」
「あなたなかなか詳しいじゃない。クラシック音楽は結構聴いてる方なの?」
「いやそうでもないさ。僕にはクラシック音楽につかる趣味はないのでね」
「じゃあ何が趣味なの?」
「趣味といえるほどのものなんてないよ。仕事が忙しくて趣味の時間がとれない」
「とれないじゃなくて、とらないでしょ?」
「そうかもしれない」
 この店はウナギのほかにも色々とうまいものを食わせてくれる。我々は松竹梅あるうちの竹のコースを頼んだのだが、色とりどりの料理が出てきて舌は無論目でも楽しめる。あかりさんはその料理を一皿づつ吟味するように食べた。洒落た料理を味わいながらクラシック音楽を論じるなんてなかなか気の利いた夜だ。小生には今宵あかりさんとこうしていられるのが無情の幸せに思われた。
「ところで」と彼女はここらで話題を変えましょうとばかりに、
「新しい仕事のほうはうまくいっているの?」と聞いてきた。
「ああ、いまのところは順調にいっている」
「都議会議員さんともうまくやれてるの?」
「いまのことろ無理難題を持ちかけられるまでにはいってないからね。そのかわり役人仲間から色々言ってくる。用地買収を担当する者は買収がうまくいくように価格を上げてくれと言ってくるし、逆に公有財産を売却したいものは早く売れるように価格を下げてくれと言ってくる。ひどいのは自分で買った土地を第三者に売却するに際して、同じ土地なのにかかわらず買収価格は相場より高く売却価格は相場よりやすく査定してくれと言ってくるのもいる。みなさん勝手なものさ」
「他の人が買ったり売ったりする際の価格まであなたのところで決めるわけ?」
「そうさ、だから不動産鑑定士みないなものだと言ったわけさ」
「で、そうした人たちの望みをなるべく聞いてあげるわけね?」
「基本的には聞いてやることにしているさ。聞いてやらないと憎まれるし、あとで江戸の仇を長崎で取られるということにもなりかねない。そのことでは苦い経験があるからね」
「へえ、どんな経験?」
「まだ若かった頃、衛生局というところで難病の仕事をやったことがあるんだけれど、難病患者の団体というのが病名ごとにあって、その人たちの団体が都に色々と要請をしてくる。僕は難病対策の総合窓口としてそれらの人々をそれぞれ関連あるセクションにつなぐ役割をしていた。そうすると自ずから難病患者の立場に立ってしまうと言うのが人情というもので、関連部局には難病団体の要請をなるべく受け入れるように圧力をかけたりする。それが役人たちには仲間への裏切りと映るようで、僕は役人仲間からだいぶいじめられたものさ。そんな経験があるから役人仲間にはなるべくいじめられないように、彼らの言い分を聞いてやることをこころがけているのさ」
「行政職の世界ってなかなか面白いのね。それぞれのポストで利害が異なり、それで互いにいがみ合うなんてことは私には想像もつかないわ」
「でもそれでいいこともある。よく権力には相互のチェック&バランスが必要だと言われるけど、それは権力が暴走しやすいことから来ている教訓なんだ。チェックが働かないと権力は独りよがりになる。役人の中に僕のようなへそ曲がりのいるおかげで、たとえば難病団体も言い分を聞いてもらえるということになるわけさ」
「なんだかよくわからないけど、面白そうね。で、あなたとしては今のところ役人仲間にいい顔をしているおかげで波風立てずにやっていられるというわけなの?」
「まあ、そういうことかな。ところで君はどうなんだい。毎日楽しくやれている?」
「楽しいってわけにはいかないけど、仕事のコツはさすがにわかってきたわね。ポイントは生徒の扱い方と教員仲間への対応。この二つをうまくやれてれば悩むこともないし傷つくこともない。それに最近の生徒はとてもおとなしくなってきて教師に反抗する生徒がいなくなったことも幸いしているわね。私が新規採用ではじめて学校現場に立ったときには、学校はすごく荒れていて生徒たちも不良じみたのがたくさんいたわ。さすがにナンバースクールと言われたような学校はそうでもなかったけれど、私の配属されたK高校などはすさまじかったわ。なにしろ校庭の片隅で男女の生徒がセックスしてるんですもの」
「それを見つけてどう言って指導したんだい?」
「あなたたちコンドームはしていたの? セックスするときには絶対にコンドームしなければダメよ、と言って指導したわ。いまさらセックスするのをやめなさいなんて言っても無駄だしね。せめて妊娠したり性病にかかったりすることから身を守るように指導してやったのよ」
「いまはそんな生徒はいなくなったんだろう?」
「ええ、だからその頃のことを思い出すととても不思議な気持ちになるわ。あの時代はなんだったんだろうって」
 あかりさんの話を聞いていると、教員は教員で色々面白いことがあるのだと納得されたのであった。小生が教育委員会にいた頃は教員組合の代表者と接することはあっても、個々の教員とつきあうことはなかった。それがあかりさんとつきあうようになって、いままで見えなかった教員世界の風景が見えるようになったというわけなのだった。
 こんなふうに話に花を咲かせているうちに夜も更けたので、我々は店を出ることとした。あかりさんは小岩のマンションに住んでいる。そこで途中まで送ろうと言って、京成上野駅から電車に乗り青砥駅で別れた次第だった。彼女は青砥駅で各駅停車に乗り換え、京成小岩駅で降りると言っていた。彼女のマンションは京成小岩駅から歩いてそう遠くないところにあるらしい。





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