老いての思考

| コメント(0)
中央公論の最新号(2018年6月号)に、山崎正和と苅部直の対談が載っていて、その中で山崎の直近の著作「リズムの哲学ノート」が話題になっている。山崎は今年84歳になるので、この本も80歳を過ぎてからの仕事だ。そのこと自体すごいなと感じるのだが、山崎はそのことを、つまり自分が年をとったことを自覚しながらこの本を書いたということに、また別のすごさを感じた。80歳を超えて一冊の、しかも哲学的な著作をすること自体のすごさもさることながら、80歳を超えた自分の老いを自覚しながら哲学し、それを文章にして一冊の著作にするというのは、いまや同じように老いんとしている筆者にとっては、つきせぬ驚きのタネである。

山崎はこの本を自分の老化の産物だと言っている。84ともなると、非常にくたびれる。だから若いときのように、目標を決めてそれに向かってまっしぐらに進むというわけにはいかない。執筆も同じで、書こうと意識してスラスラと書けるものではない、そうではなく自然と「書く気になる」のだという。自然と自分の内部から書く気になる意欲なり姿勢が強くわき起こってきて、それに促されるようにして書く。これは若い頃に、わざわざ「する気になる」などと考えずに、自然と意欲していたとおりに行為していたのとは明らかに違う。人は老いると、何事も自分の意思通りにはものごとをはこべない。自分の内部から自然と整ってくる状態にうまく乗ることで、書くことも含め、色々なことができるようになる。そのような趣旨のことを山崎は言っている。

筆者はまだ80には間があるが、やはり自分の老いを自覚する事が多い。やたら物忘れが激しくなったのとは別に、山崎が言っているようなことも、最近はよく体験する。さすがに散歩することくらいは自分の意志に従って行うが、ものを書く作業などは、必ずしも意思通りには運ばない場合が多い。だから最近は、ものを書く場合には、あらかじめ書きたいことの全体像を頭の中で構成し、それに従って筆を進めるというようなことはなかなか出来ない。それ故、全体像はごく緩やかに設定し、あとはその時の勢いに任せて筆を進めて行くことにしている。その方がうまくいく場合が多いことを、最近は体験を踏まえて感じるようになってきた。

そんなわけで筆者は、山崎の執筆姿勢やら、身の処し方について、自分の身に照らして、大いに裨益させられるところがあった。何事をなすについても、肩に力を入れず、無理に自分を拘束せず、自分の内部からわき起こってくる自然のリズムに合わせて身を処していくことが大事だと思う。話題になっている山崎の本のタイトル「リズムの哲学」を筆者はまだ読んではいないが、おそらく上述したようなことを裏付けるようなことが書いてあるのだと思う。





コメントする

アーカイブ