デリダのレヴィナス批判:暴力と形而上学

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デリダのレヴィナス批判は主に暴力についてのレヴィナスの議論に向けられている。レヴィナスは、人間が他の存在者について思惟するとき、それを自己の自同者としての同一化作用にひきつけて理解する。それは他者をそのあるがままの姿で受け入れるというのではなく、自己のある種の枠組みに無理やりはめ込むということだから、そこに暴力が働く。しかしこの暴力によっては他者はその本来の姿では捉えられず、かならず変容をこうむっているに違いない。それでは本物の他者を理解したことにはならない。本物の他者を理解するためには、暴力によってではなく、非暴力的に、言ってみれば平和的に他者を受け入れるのでなければならない。それは他者の存在をそのまま自由に放置しておくことを求める。放置された存在としての他者をその放置されたままに受け入れること、それが本当の他者の理解をもたらす。したがって暴力的な他者理解をやめて、平和的に他者を受け入れることが肝要である、というのが(デリダの解釈を通した)レヴィナスの基本的な考え方だ。

しかしこの考え方は成り立たないのではないか、とデリダは問題提起をし、レヴィナスの暴力の捉え方とそれに基づく他者理解を批判するのである。

レヴィナスは存在と存在者とは異なるとしたうえで、あらゆる暴力は概念の暴力であり、それは存在について振るわれるとしていた。つまり他者をその存在において概念的に捉えようとするからそこに暴力が働く。そこでもし他者を概念的にではなく、つまりその存在においてではなく、存在者そのものとして捉えようとしたらどうなるか。一応存在者は存在とは区別され、その限りで概念化作用の以前にあるものだから、そのようなものとして、つまり暴力によって概念化作用を及ぼされる以前の、その本来のままの姿においてこれを捉えることができるのではないか、というのがレヴィナスの考え方だ。ということは、「『全体性と無限』の論議の奥底には、存在の思考が秘められているのであって、それは可能な限り非暴力に近いのである」(川久保照興訳)というわけである。

この議論は存在と存在者とを異なるものとして切り離すことを前提としている。しかし存在者を除外して存在を思考することも、存在を除外して存在者を思考することもナンセンスなのではないか。それは何も思考しないことと等しいとはレヴィナスも認めていることではないのか。存在は存在者以前には実在しないし、その逆に存在以前に存在者が実在することもないのではないか。

レヴィナスが存在と存在者とを切り離す努力をしている背景には、他者の存在を非暴力的に受け入れることを可能にする条件を見出したいという欲望が働いているのだと思われる。しかし他者の存在は存在者としての他者のあり方と分離できるものではない。したがって他者を思惟しようとすれば、必ずその存在について思惟せざるを得ないわけであり、それは概念化の働きを排除できず、したがって暴力の働きを介在させざるを得ない。

「暴力のない存在などというものは、存在者を除外して表示されるような存在、つまり無であり、叙述がないことであり、表示をしていないことであり、現象性がないことであろう。かりに最小の暴力さえ用いることなく言葉を表示できるとしたら、そのような言葉は何も画定せず、何も語らず、他人に対してなにも差し出しはしないだろう」

ところが、とデリダはつけ加える。「規定付けをしないような文などはない。つまり概念の暴力を通らないような文などはない。暴力は分節とともに現われるのである」。したがって言語が世界を他人に与えなければばらないとしたら、暴力を避けるわけにはいかない、ということになる。

デリダがこのようにレヴィナスを批判することによって何を意図しているのか。筆者はまだレヴィナスを読んでいないので、デリダのレヴィナス批判を公正に評価できるわけでもなく、また、デリダがこうしたレヴィナス批判を通じて何を主張しようとしているのかについても、正確な認識を持てる段階ではない。したがってこの問題への筆者のコメントはもうしばらく後で、つまりレヴィナスを読み込んでからにしたいと思う。






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