学海先生の明治維新その卅五

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 徳川将軍が全面降伏したあとも旧幕府側の抵抗は収まらなかった。とくに関東から東北地方の各藩には反政府意識が強く各地で新政府軍と衝突した。学海先生の日記はその衝突の情報をことこまかく記載している。
「東北の戦、ますます義兵勝を得たりといふ」
「宇都宮城、一旦敵勢に奪われたりしを、官軍の数を得て奪回せりといふ」
 こんな具合だが、ここで義兵というのは、前後の文脈からして反政府軍側をさし、官軍というのは新政府軍側をさしている。先生はつい先日までは討幕軍を賊徒と呼び幕府側を官軍と呼んでいたわけだから、これは大きな転換と言える。この時点での先生の心中の複雑さが推し量られるというものであろう。
 新政府軍と旧幕府側との戦いの余波は佐倉藩にも及んできた。四月十三日の日記には、
「去る三日・四日両日、下総国船橋・行徳辺にて大戦あり。官軍利を失ひ、船橋駅を火せらるるよしを聞く」とある。
 これはいわゆる市川・船橋戦争にかかるものである。この戦争は東国における旧幕府軍と新政府軍との間の最初の本格的な戦いで、旧幕府軍は撒兵隊を組織して市川と船橋で東征軍と戦った。この戦いで新政府軍は船橋大神宮を大砲で爆破し船橋市街に火を放って八百軒以上を炎上させた。学海先生の日記には反政府軍が放火したように書いてあるが逆である。この戦いでは船橋のほか市川の市街地も新政府軍のために消失した。戦後新政府側は地元の民衆に恨まれることを恐れて損害賠償金を支払ったという。
 十八日には撒兵隊の生き残りが佐倉藩の領内に駐屯したという情報が入ってきた。それに対して学海先生はただちに兵をあげて討伐すべきだと藩の幹部に上伸したが、しばらく様子を見ようということになった。
 二十六日には、東海道総督の軍が佐倉城に入り、上総大多喜城を攻撃するについて佐倉藩の協力を要請してきたため、佐倉藩では国元の独断でその要請に応え、大砲・小銃隊二百余人を出したこと、また、出羽の領内においては、薩長両藩の要請に応じて天童藩攻撃に加わったと知らせてきた。佐倉藩はいまやなし崩し的に新政府軍側に立ったわけである。このことは後日佐倉藩にとってよい結果となってあらわれるであろう。
 そんな折に親友の川田毅卿が偽名を使い町人に姿をやつして学海先生を訪ねて来た。毅卿の主君板倉勝静は慶喜と共に開陽丸に乗って江戸城に戻った後、討幕軍から朝敵扱いされて各地を逃げ回っていた。一方見捨てられた形の家臣たちは主君を失って途方にくれていた。そんななかで毅卿は主君勝静の行方の追及や備中松山藩士たちの赦免に奔走していたが、なにせお尋ね者の身分としては大っぴらに活動するわけにもいかず、また資金も底をついている。ついてはその資金を佐倉藩で用立て、江戸の同志のもとへ届けてもらえないか。そんな趣旨のことを毅卿は学科先生に請うたようである。日記その他の記録からして、先生は親友のこの要請にできる限りのことをして応えたようである。
 毅卿とは藤森天山門の同輩で若年の頃から兄弟のように交わってきた人だ。その兄ともいうべき毅卿がいまや時代の奔流に巻き込まれて苦痛にあえぎ、自分に助けを求めてきている。ここはその願いに応えることこそ信義のあかしではないか。学海先生の毅卿への助力には、単に親友としての友情の他に、信義を重んじる儒教道徳が働いていたと言えそうである。
 五月十五日には彰義隊と新政府軍の間でいわゆる上野戦争が戦われた。その情報は二十五日に先生のもとに届いた。その日には川田毅卿が訪ねてきてこれから江戸へ向けて出立すると言った。ともあれ先生の日記には、この戦いを次のように記している。
「十四日から十七日に至るまで、戦、尤も盛なり。官軍利なくして横浜まで遁走すといふ」
 事実はこの記述とは正反対で、戦いは十五日一日で決着がつき新政府軍が圧勝したのである。その理由としては新政府軍側の火力の充実がある。大砲と鉄砲を駆使して槍と刀をふりまわす敵をそれこそ鶏をひねるようにして片づけたのであった。この火力を用意するために政府軍参謀の大村益次郎は莫大な借金をした。いまや火力と金力が戦いを制するようになったわけだ。槍と刀ではもはやまともには戦えなくなったのである。
 旗本崩れや浪人からなる彰義隊は一時数千人を擁したというが、上野での決戦の時には千人ほどとなり、彼らは新政府軍の砲弾を浴びて殲滅・四散したのである。戦前における彰義隊の評判は高く、
「色にするなら彰義隊」とまで言われたが、あっけなく負けた後は腰抜け呼ばわりされた。
 今でも上野周辺の寺院には当時新政府軍によって撃ち込まれた弾丸の跡が山門に残っていたりして、往時の戦いの様子がしのばれる。
 ともあれこの記述の中で先生が新政府軍をためらいなく官軍と呼んでいることが興味深い。先生は当初討幕軍を賊徒と呼んでいたわけだが、それがいつからかためらいがちに官軍と呼ぶようになり、ついには何の疑問もなく官軍と呼んではばからなくなったのである。
 これと前後して閏四月二十八日に江戸藩邸からの使いが来て、藩主正倫の謹慎が解かれたと伝えた。東征軍への佐倉藩の貢献が総督から認められたというのである。学海先生は東征総督への藩主赦免の哀訴が退けられたあとも、あきらめずに哀訴嘆願活動を続けてはいた、哀訴状を作成して中御門公に奉り、総督に取り持ってもらえるように計らったりしていた。その活動が実ったともいえるが、やはり決定的な理由は佐倉藩の東征軍への貢献だったとみるべきだろう。
 思えば佐倉藩はあの薩摩藩邸焼き討ちにもかかわり、言って見れば佐幕派の領袖のようなものとして新政府軍に睨まれても当然だった。それが新政府軍に多少の便宜を図らったとはいえ赦免されたことは非常に興味ふかいものを感じさせる。薩摩藩邸焼き討ちに中心的な役割を果たした庄内藩に対しても、そんなに過酷な処分は下されなかった。このことは新政府軍が無用な対決を避けようという方針に転じていたらしいことを思わせるものだ。
 学海先生はさっそく太政官に赴き東征総督の決定を伝えた。するとすぐに藩主の天機伺いが実現した。藩主の帰国が実現するのは七月に入ってからのことである。
 それ以前に学海先生は藩を代表して公務人になっていた。公務人というのは五箇条ご誓文の精神を体して導入された官制改革の一部をなすものである。この官制は政府を議定官、行政官、刑法官に分かち、議定官を立法機関と位置付けて、それを上局、下局に分けたうえで、上局は政府の幹部がこれを兼ね、下局は各藩の代表を以て構成することとした。この下局は、五箇条ご誓文の執筆責任者である木戸孝允の意向に基づく制度で、木戸はこれをご誓文中の
「広く会議を起こし万機公論に決すべし」の精神を体現したものと考えていたようである。ただしそのメンバーを広範な選挙人よる選挙ではなく、各藩から指名させたところに、その制度の時代の制約がある。
 この公務人制度が導入された当初は貢士などとも呼ばれ、その言葉は先生の日記の中にも出てくるが、藩主謹慎中の佐倉藩にはこれを推薦する権利がなかったらしい。佐倉藩が公務人を出す権利を得たのは藩主の謹慎が解かれたあとである。その際に学海先生が藩の公務人に選ばれたわけは、原則として従来の留守居役を公務人にあてよという新政府の意向を踏まえたためである。
 公務人といえば藩の役職である以上に政府の立法機関の一員である。いわば国家の屋台骨というべき立派な職に自分がつくことができて、学海先生はそれを名誉なことと思い、一挙に自分が国家有用の人物になったような気がした。その喜びは、今後名を衛門次郎と変えたいという決意にもあらわれている。当時は人生の節目ごとに名を変えるのは普通のことだったのである。なおこの衛門次郎という名は、先生が誇りとする祖先の名にあやかっている。その祖先蕃松院の名を右衛門佐と言った。そこから衛門をもらって、なお太郎としたかったが、先生には兄がいるので、次郎としたのだと日記の中で弁明している。
 七月四日に藩主正倫の国元佐倉への帰還の日程が決まった。学海先生は引き続き京都に残って藩を代表して諸事にあたることを命じられた。小事は独断で決してよいという強い権限も与えられた。また当時はまだ京都が政治の中心だったので、先生には公務人として国事に従事する責任もあった。
 七月八日に藩主正倫が三百名の藩士を従えて京都を出発した。学海先生は途中まで見送った。すると藩主の行列を見送った土地の者の中に、藩士の誰かを名残惜しむ様子を見せるものがあった。その様子を学海先生は次のように書いている。
「道野辺の家より、五六人の女子走り出て、中にも年の程十六・七ばかりなるが、いたくなげきたるさまにて眼をすりあかめたるが、あとを見送りて走り行きたるを見き。流石にあはれに覚へし。
  まことなしと誰か言けんうかれ女が袖に色ます道芝の露」
 学海先生の風流心が伺われるところである。





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