学海先生の明治維新その卅八

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 明治維新は無血革命などと呼ばれることがあるが、実際には方々の戦いで合わせて一万人近くの人が死んでおり、決して無血というわけではなかった。戊辰戦争という言葉がある通り、日本は一種の内乱状況を経て、天皇を中心とする新しい国の形が出来上がったのである。この内乱状況は国民の間に深刻な分断をもたらした。したがって新政府にはこの分断を埋めるという課題が大きくのしかかっていた。この課題の解決に最大限利用されたのが天皇だった。新政府は天皇を前面に担ぎ出すことで、その権威を借りて、国民を統合しようとしたのである。
 たまたま明治維新前後に天皇の交代が行われた。孝明天皇が慶應二年十二月二十五日に亡くなり、翌年正月に皇太子睦仁が践祚してはいたが、まだ正式には即位していなかった。そこで新政府が新天皇の即位にあわせてさまざまな儀式をセットし、それを通じて天皇を中心とした国の形を国民によく見える形で示そうとしたのである。
 慶應四年七月十七日に江戸が東京と改称された。これによって今まで幕府の根拠地だった江戸が西の京に対して東の京の位置づけになり、東京もまた天皇の威光を帯びる都市として国民に印象付けられた。
 八月二十七日には即位の大礼が行われた。その儀式は徳川時代における唐式を改めて古式にのっとることで、天皇の神秘性を演出した。この大礼について当時京都にいた学海先生はほとんど関心を示していない。当日の日記には次のように記している。
「今上皇帝即位の大礼を行せらる。麟祥院の蓬雲師、松茸を多くおくられたり。即、詩を以て之を謝ず。云、
  尺書遠自上人房  尺書は遠く上人の房よりす
  居士看来喜欲狂  居士看来って喜び狂はんと欲す
  炮炙恰宜供晩酌  炮炙して恰も宜しく晩酌に供すべし
    一籃秋味蕈花香  一籃の秋味蕈花の香」
 天皇の即位より人からもらった松茸のほうに関心が向いている始末である。その翌日の日記には、この松茸を食いすぎて腹をこわしたと書いている。
 九月八日には明治と改元され、それと合わせて一帝一号の原則が定められた。日本の元号は中国の暦法の思想によっており、改元は一代の天皇の間に頻繁に変わるのが例であった。たとえば暦が一巡したことを意味する甲子の年には必ず改元することが行われた。これを一帝一号にすることで天皇の権威を飛躍的に高めようとする意図がこれには含まれていたわけだ。
 天皇神格化の仕上げは、九月二十日から十月十三日にかけて行われた東下の旅行である。この旅行には岩倉具視以下の諸役人や各藩の兵士ら二千人が付き従い、行く先々で天皇の権威を演出する行事が行われた。たとえば、孝子・節婦を選んで褒賞したり、七十歳以上の老人に功労慰労金を与えたり、災害・兵火の罹災者に見舞金を交付したり、人々の労働現場を視察したりして、民衆を感動させ、天皇への敬愛の念を植え付けようとつとめた。
 この大行列が京都をたったときにも学海先生はあまり強い関心を示していない。病気を理由に見に行こうともしていない。
 天皇の権威を高めるという目的には神道も利用された。徳川時代の神道は仏教に従属していた。神仏融合が進み神社は寺院と一体化していた。それに対して新政府は神仏分離の方針で臨み、神道の自立を図ることを通じて、神道を天皇の権威確立に役立たせようとしたのである。長州藩やその隣の津和野藩は幕末期から神仏分離・廃仏毀釈の政策をとってきたが、その政策を全国規模で推し進めようとした。そこから極端な廃仏毀釈運動が起ることともなった。興福寺はそのよい例である。興福寺の僧侶は残らず還俗させられ、また寺院所有の宝物も売り払われた。三重塔さえも私人に売り払われ薪にされかかったくらいである。
 これにはさすがの新政府も驚き、神仏分離と廃仏毀釈は別だと指導したが、その指導はなかなか浸透しなかった。やがて廃仏毀釈運動は明治四年頃に深刻化する。現代の日本人に不信心な者が多いのは、この廃仏毀釈によって仏教の信仰を投げ捨てた一方、押し付けられた神道に宗教としての内実がほとんどないせいなのである。おかげで我々現代の日本人は世界でもまれにみる世俗主義者になったわけである。
 
 ここで話を学海先生に戻そう。先生が公務人を拝命したことは先に述べたとおりだが、公務人にはなったものの、ほとんど活動らしきものはなかった。時たま儀礼的に集まる程度のことであった。慶應四年八月二十一日には公務人が公議人と改められ、それとは別に留守居を公務人とすることとされた。公議人は政府の機関として政府のために意見を述べるものであり、公務人は従来の留守居同様藩を代表して周旋にあたるものとされたわけである。
 先生は自動的に公議人となった。九月一日には公議会で新天皇即位を祝う参賀が催され、学海先生も当然参加している。日記には、
「建所に候して賀し奉る。虎の間にて御酒・御肴を贈る。冥加あまりあると謂まし」
 この参賀の席で、榎本武揚の一味が軍艦をのっとって脱走したという噂を先生は聞いた。
 九月十六日に最初の公議所の議事が行われた。議長には秋月種樹が就いた。秋月は九州高鍋藩の世継で、小禄の外様大名にして幕府の若年寄に抜擢されたが、早くから薩長側に味方したので新政府に重用されたのであろう。
 この議事に於いて学海先生は、議員は選挙によって選ぶべきだとの持論を展開し、周囲の同輩たちを大いに感心させたのであった。
 九月二十五日には天皇の東下にともない公議人も東下すべしとの方針が出された。この方針にもとづき学海先生も東京へ向かうこととなる。
 そんな折に旧友の川田毅卿が訪ねて来た。毅卿には過日軍資金を用立ててやった経緯がある。また先日は書簡を受け取ったばかりだ。その書簡の中で毅卿は主君勝静の行方が知れずといって嘆いておった。そんなわけで毅卿の様子には元気がなかった。毅卿はまず過日の軍資金の礼を言った。
「おかげで金は非常に役立った。あの金を使って藩士にさまざまな活動をさせることができた。主君勝静公の動向はいまだにつかめぬが、どうもまだ会津にいるらしい」
「勝静公は薩長に憎まれておるからこれからの身の振り方がたいへんじゃの」
「藩としては親族の栄次郎君に藩主になってもらい、何とか御家の再興をはかりたいと考えておる」
「なんとかうまくいくといいがの」
「おぬしの佐倉藩は実に幸運だったの。我が藩と同じく譜代大名として徳川家に仕え、老中も出しておきながら、薩長から朝敵扱いされずに済んだ。どこで運命が別れたのか?」
「いや我が藩もすんでで朝敵にされるところじゃった。おぬしも知っているように、我が藩は将軍哀訴の先頭に立って活動し、藩主の正倫公も自ら哀訴状を持って京都に上る途上で、東征総督有栖川宮から京での謹慎を命じられた。つまり徳川方に肩入れしておると見なされたわけじゃ。それがどうやら反転して罪を許されたのは、我が藩主が不在の間国元の独断で薩長軍に協力して兵を出したからじゃ。それが我が藩の運命の分かれ目になった。我が藩はその前にも江戸の薩摩屋敷焼き討ちにもかかわっておる。薩摩はそのことを恨んでおるじゃろうから、そのことでも罪に値するところを赦免されたわけじゃ。まあ、運がよかったのじゃろう」
「運だけではないぞ。やはり国元において薩長に肩入れしたことが大きく働いたのじゃろう。それにつけてもおぬしはその国元とは全く違うことをやっていたわけではないか。つまり将軍のために働こうとしていたわけだから、これは大きな目で見ると、国元が一生懸命藩の利益のために働いて頃に、おぬしはその足を引っ張るようなことをしておったわけじゃ」
「おぬしは相変わらずきついことを言うの。それではまるで拙者が藩のために間違ったことをしていたように聞こえるではないか」
「そのとおりではないのか?」
「そういう見方もあるかもしれぬが、拙者は藩のために全力を尽くしておったのじゃ」
「それはわしも同じじゃ。同じように藩のために尽くしていながら、わしはいまだに主君と会うこともできずにこうしてあちこちを放浪しておる。一方おぬしは公議人に任命されて朝廷のためにも働いている。実に運命というものは過酷なものじゃ」
「たしかにおぬしにとっては過酷かもしれぬ」
「で、その公議人というのはどんな働きを求められておるのじゃ?」
「五箇条のご誓文にある万機公論に決すべきの精神、その精神を発揮せしむるというのがこの職が設けられた理由だと聞いておる。したがって我ら公議人は広く国全体の立場から望ましい政体のあり方について建議することを求められているということじゃ」
「会議は頻繁に行われているのかの?」
「いまのところはまだ頻繁というわけではない」
「いずれその会議が政府の方針にかかわるような働きをするようになったら、是非朝敵扱いされておる諸藩への処分を軽くすますように働きかけてもらいたいものじゃ。どの藩も尊王という点では同じはずじゃ。たまたま行き違いがあって朝敵扱いされてしまったが、本来は国のために働きたいと思っておる。だから処分を寛大にしてそれなりに用いれば国の力になるはずなのじゃ」
「おぬしの言うことをよく肝に銘じておこう」
 二人の会話はこんなふうに進んだのだった。





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