内田樹「死と身体」

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先日読んだ「他者と死者」の「あとがき」で内田樹は、それまでに発表したレヴィナス論二冊に「時間論」と「身体論」を論じたものを加えてレヴィナス三部作を完成させたいと言っていたが、「死と身体」と題したこの本がそれに応えるもののようである。「時間」が「死」に集約され、その死が身体とどのように結びつくのか、というのがこの本のテーマである。前二作と比べると、レヴィナスは前景化していない。あべこべことばとか、ダブルバインドとか、夢の文法とか、あまりレヴィナスとは関係ないようなことがらをキーワードにして、時間と身体との関連性を論じている。

その時間論にしてからが、ハイデガーの現存在分析をよりどころにしている。また副題に「コミュニケーションの磁場」とあるように、コミュミケーションについての近年の成果を盛り込んでいる。というわけでますますレヴィナスとは直接かかわりを持たない話が多いのだが、またそれによって話が複雑になっているきらいがないわけではないのだが、この「話をなるべく複雑にする」という戦略については、レヴィナスに共通するものがある。どうやら内田がレヴィナスから学んだことは、この「話を複雑にする」ということらしいのだ。といっても、内田の語り口が複雑でわかりにくいと言うことではない。むしろその反対だ。内田の話し方は非常に論理的でわかりやすい。そのわかりやすい語り口で、単純なことがらをわざと複雑にしようというのだから、読者としてはゆとりをもって読むことができる。レヴィナスやラカンは、むつかしい話をむつかしく語ったが、内田は基本的には、むつかしそうな話でもごくわかりやすく話すことを心得ているように見受ける。だから我々のような知的能力があまり高いとは言えない読者も、十分についていくことができる。

内田はいろいろな切り口から話を進めてゆくが、それらが向かう先は身体を通じてのコミュミケーションということだ。身体を通じてのコミュニケーションがなぜ死者と結びつくのか。それは本文を読むと、かすかに伝わってくる。死者というのは身体の究極的なあり方だというふうに内田は捉えているらしいことが、文脈から伝わってくるようになっている。面白いのは、この身体としての死者を悼むことを覚えたことが、人間をサルから分離させた最大の要因だと捉えていることだ。人間性の定義は星の数ほどあるが、内田による人間の定義は、死者を悼む動物ということになるらしい。

内田の切り口は非常に多岐にわたり、しかも縦横無尽に入り組んでいるので、話を聞かされる方としては、途中ではぐらかされたような気がすることもあるが、話が多彩なのでつい引き込まれてしまう。この内田独特の話術は、そう意識してできるものではない。だいたいしゃべりたいことをあらかじめ特定して、それに必要な準備を完璧に整えたうえで話すことがらというのは面白くない。聞いているほうばかりではなく、しゃべっているほうも面白くない。なぜならすでに考えられ、しゃべられたことがらには、新たな発見はないからだ。だから新たな発見をしたいと思うなら、何らの準備なしに語る方がよい。内田はそう信じて、話すにあたってはほとんど何らの準備もなしにいきなり話し始めるのだそうだ。この本自体がそうして自由自在に話した事柄を一冊にしたにすぎないと内田は言っている。この本のまとまりのなさはそこから来ているのだろう。そのかわりに自由闊達な話の展開ぶりを楽しめるようになっている。

この本に出てくる話のなかでもっとも興味を引くのは武術を論じたところだ。内田は自身の武術修行や師たちの観察から、身体の運用についての独特の捉え方を会得した。それを簡単にいうと、一歩先の自分を基準にして現在の自分を見ることだと言う。一歩先から今の自分を見るということは、これから起こることがらを既に先取りしているということを意味している。単に頭のなかで先取りしているのみならず、身体運用の上でも先取りしている。したがってこれから自分に起こる出来事があらかじめわかっている。そういう境地に立つと、人間というものは、武術で言えば無敵の境地に立てるのだそうだ。あえて敵を持ち出すまでもない、自分自身に対しても高い次元から向き合うことができる。そのために自分自身を自在にコントロールできる、と言うのである。

筆者は武術をやったことがないので、そのへんの呼吸はよくわからぬが、自分自身のコントロールが、単に精神的な次元にとどまらず、身体も含めたトータルなものだという見当はつく。

この本はいちおうレヴィナス論三部作の一翼を占めると内田自身言っているわけだから、そのレヴィナスに関連していえば、先ほども言ったように、この本はレヴィナスを前景化して、つまり主題的に、論じているわけではない。ついでに言及するといったふうである。その言及の中でひとつ興味深いのは、レヴィナスは他者について徹底的に考え抜いた思索家だと言っていることである。フッサールの他我が自我の延長として自我とつながっているのに対して、レヴィナスの他者は自我とのあいだに連続したつながりをもたない。それをレヴィナスは、自我と他者とのあいだには切れ目がないという言い方をしている。連続しているからこそ、二つのもののあいだには切れ目がある。そもそも連続せずに断続しているものの間には切れ目はない。このへんを内田は次のように言っている。

「他者と私のあいだには『切れ目がない』、そうレヴィナスは言っている。他者と私はつながっていない。自分たちをひとつの枠組みで位置付けることができない。それが他者である。レヴィナスはそう言っている。それにもかかわらず、そのような他者とコミュニケーションをしなければならない。ここで話がすごくむつかしくなる」

自分とはなんら関係のない他者ならば、わざわざコミュニケーションをとらなくても済む話だ。ところがレヴィナスの他者は、自我とは絶対的に断絶しているにかかわらず、無視できないばかりか、コミュニケーションをとるように自我を仕向ける。それは他者が自我にとってかけがいのないものだからだ。なぜかというと、絶対的な他者とはレヴィナスにあっては神のことをさすからだ。神を人間は無視することができない。ところが内田がここで紹介しているレヴィナスの言葉には、絶対的な他者が神であると言う含意が明らかに読み取れない。そこでややこしい議論になるわけだが、なぜ内田がレヴィナスにかかわる議論をむつかしいままに放置しておくのか、それはどうも内田が好きなメタレベルの精神的問題に属するようである。






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