奇妙な仕事:大江健三郎の処女小説

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「奇妙な仕事」は、大江健三郎の実質的な処女作だ。これを書いたとき大江は二十二歳で、大学在学中だった。当時の大江は、カミュやサルトルに夢中になっていたというが、この作品にはカミュばりの不条理らしさが感じられる。サルトルの実存主義文学の影響も指摘できよう。

テーマは犬殺しだ。大学の学生である僕が、大学のアルバイト募集で知った犬殺しの仕事をする。その仕事を通じて僕は、世の中の不条理の一端を思い知るというような設定の短編小説だ。

犬殺しには殺人の隠喩を感じ取ることができる。それも150匹の犬をわずか三日で、しかもほとんど素手で殺すと言うから、いかにも陰惨なイメージが伝わってくる。素手で150匹の犬を殺すのは、機械を使って1500匹の犬を殺すよりもっと強いインパクトを犬殺しの当事者に与えるのではないか。実際その仕事は僕に強烈なインパクトをもたらすのだ。

犬たちは大学に飼われていた実験用の犬だった。それが英国人の女が残酷だと新聞に投書したことがきっかけで、大学が飼うのをやめた。ところが大学には、犬をそのまま飼い続けるだけの予算がないので、すみやかに殺すことにする。その仕事をある男が請け負う。僕はその男に雇われる形で犬殺しの仕事を引き受けるのだ。

何故こんな仕事を僕が引き受けたか。それは触れられていない。ただ一緒に引き受けた学生が二人いて、その内の一人である女子大生は生物学をやっているんだし、動物の死体には馴れているからという。もう一人の私大生は、僕同様大した動機がないままに引き受けたようであった。要するに手っ取り早く金になると思ったのかも知れない。僕はと言えば、無論喜んで引きうけたわけではない。

普通の人間なら、犬を、しかも150匹もの多くの犬を殺す仕事など、とても引き受ける気にはならないだろう。いくら金になると言っても、生きものを殺すことには相当の心理的抵抗を感じるに違いない。ところが僕も、その俄仲間の二人の学生も、たいした心理的抵抗を覚えずにこの仕事を引き受けてしまう。普通なら、そんなひどい仕事を引き受けるには、相当の理由、たとえば報酬が桁違いとか、そういう理由があると思うのだが、小説にはそうしたことは一切触れられていない。犬殺しも、普通のアルバイトと同じように、ごく普通の仕事のように描かれている。

だがさすがに生きものを殺す仕事だから、生きものを殺すことの意味を感じさせる描写はある。たとえば、犬は理由もなく一斉に泣き出し、泣き出すと二時間は泣き止まないが、人間が近づいたくらいでは泣かないとか、仲間の犬が次々と殺されても、他の犬はほとんど反応を示さないとか、といったことである。それどころか犬たちは、それぞれ杭につながれて、敵意をすっかりなくしている。それを見た僕は、「僕らだってそういうことになるかもしれないぞ。すっかり敵意をなくして無気力につながれている。互いに似かよって、個性をなくした、あいまいな僕ら」

この描写は、アウシュヴィッツの蚕棚のような三段ベッドに押しこまれ、死を待っているユダヤ人たちを想起させる。大江は別にユダヤ人が念頭にあったわけではなく、戦後の日本人たち、自分も含めた日本人たちに、そうした無力さを認めて、シニカルな気持ちになっただけかもしれない。

この小説の一番のハイライトは、犬を殺す場面だ。犬を殺すのは、犬殺しを専門にしているある男だ。当時の日本にはこうした犬殺しが存在したのだろうか。当時は野良犬の多い時代であり、東京では犬殺しのトラックが街を巡回して野良犬を捕らえて連れ去る光景がよく見られたわけだが、そうして捕らえられた犬を殺す仕事が、商売として成り立っていたのだろう。

今の常識からすれば、犬を殺すこと自体がタブーの扱いになっているが、戦後間もない当時にあっては、犬を殺したからと言って責める人間、すくなくとも日本人はいなかった。新聞への投書で、大学が多くの犬を実験用に飼っているのは残酷だと批判した英国女も、自分の投書の結果大勢の犬が殺される羽目になるとは思いもよらなかっただろう。

それはともかく、もし大量の犬を殺すとしたら、いまならガスとか電気とか毒とか、間接的な殺害方法が選ばれるだろう。すくなくとも人間が素手で犬を殺すなどと言うことはありえない。ところがこの小説に出てくる犬殺しの男は、一匹づつ、それも素手に持った棍棒で叩き殺すのだ。しかも伸びた犬の喉に包丁を差し込んで、バケツに血を流してから、あざやかな手並みで犬の皮を剥ぎ取るのだ。
それを僕は残酷だと思うのだが、当の犬殺しは違う考えを持っている。彼は子どもの頃からこのやり方で犬を殺してきた。犬を殺すのに毒を使うような汚い真似はしない。犬だってきれいに死んでいく権利があるはずだ、というのである。

犬にそういう権利があるとしたら、人間にきれいに死ぬ権利があるのは当然だ。大江は明示していないが、ついこの前までは、死ぬことが美しいという言説があふれていたものだ。そういう時代にあっては、同じく死ぬならきれいに死にたいと願うものが多かっただろう。犬にだってきれいに死ぬ権利を認めてやるべきだ。それが犬殺しの言い分だった。それを僕は、あの男の文化だと受け取り、それを引き取る形で女子大生は犬殺しの文化と言う。犬殺しにも文化があるというわけだ。

二日目に、仕事の最中に、僕は一匹の犬に太股をひどくかまれてしまう。その直前に僕は、自分の手で一匹の犬を叩き殺していた。私大生が殺そうとした犬が死にきれずにいたのを、とどめをさしてやれと犬殺しから言われたのだった。僕はおとなしい眼をあげて血を吐いている犬の鼻面を棍棒で殴った。犬は鳥のような声で吠え、倒れた。

それを見た私大生が僕に向かって、「君はひどいことをする」と言い、「君は卑怯だ。あの犬は無抵抗で、弱り切っていた」と言って責めた。その非難に対して僕は怒りで喉がつまった。

こんないやな思いをしたにかかわらず、僕らはアルバイト代をもらえなかった。仕事を請け負った男が、犬の肉を肉屋に横流しした罪で逮捕されてしまったからだ。結局僕は、一文の金ももらえなかったばかりか、太股にひどい怪我をして、その治療費も自分で払わねばならないハメになってしまった。

そんな眼にあって僕は言うのだ。「僕らは犬を殺すつもりだったろ・・・ところが殺されるのは僕らの方だ・・・犬は殺されてぶっ倒れ、皮を剥がれる。僕らは殺されても歩き回る」

この言葉にどんな意味が含まれているのか。作者である大江は一言も触れない。それは読者である君自身が考える事柄だと言わんばかりに。






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