朝のガスパール:筒井康隆のSF小説

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筒井康隆の「朝のガスパール」は、一応SF小説ということになっていて、実際「日本SF大賞」を受賞してもいるのだが、通常のSF小説とはだいぶ趣向が異なっている。たしかにシュールなテレビゲームをプロットに含んではいるが、そしてその意味ではSFと言えなくもないのだが、そればかりではなく、ほかにも様々なプロットが平行して仕組まれている。その中にはテレビゲームを楽しんでいる現実世界の人々の人間像を描いた部分もあるし、その人間像とSF部分の共通の作者としての櫟沢なる人物にかかわる話もあるし、更にこれらすべての究極の作者たる筒井康隆自身にかかわる部分もある。従ってこの小説は、単純な構成のSF小説などではなく、さまざまな物語が重層的に交差する立体的な小説といってもよく、あるいは作者が深く物語にかかわる点に着目すれば、メタ小説と言ってもよい。

更に話を複雑にしているのは、この小説は作者の孤独な創造作業の産物ではなくて、読者を交えた一種のゲームになっていることだ。筒井はこの小説を朝日新聞の連載という形で始め、連載の途中で寄せられた読者からの意見を、小説の中に取り入れるという手法をとっている、と主張している。つまりこの小説は、作者と読者の共同作業のたまものだというのである。しかもその共同作業の内幕を、真の作者である筒井自身の口から紹介するのではなく、作中人物である櫟沢とその相棒のやりとりを通じて紹介するという手の込んだ方法をとっている。それゆえ読者は、なにが小説の本筋で、何がそれに対する注釈なのか、気をつけて読まねばならぬ。でなければ読者自身が小説世界によって愚弄されないとも限らない。

というわけでこの小説は筒井らしい遊びの精神で満たされている。遊びの精神は筋の進行のみならず、文章にも現れる。それは筒井一流の諧謔とブラックユーモアに富んだもので、スカトロジーとか科学的なジャーゴンを以て味付けされている。筒井の小説の中では、もっとも筒井らしさの発揮されたものと言ってよいのではないか。

クライマックスはゲームの中のキャラクターと、そのゲームのプレイヤーたちとが現実世界で遭遇し、互いに殺戮をする場面だ。このクライマックスがあるために、小説全体はそれを中核として統合された形となり、全体的にまとまった印象を与える。筒井の他の小説のことはあまり知らないが、このように小説に迫力のあるクライマックスを設けるというやり方は、筒井の特徴なのだろうか。小説にはクライマックスなど気にせずに、川が流れるように流れてゆくものもあれば、壮大な物語を含んだものもあるが、筒井のこの小説のように、クライマックスを設けて、小説の細部をすべてそれに向かって収斂させていくというやり方は、小説のあり方としては非常に経済的だと言える。これはスケールの大きな小説にも、また短編小説にも適用できる、便利なやり方だ。

そのクライマックスの中で、殺戮の場面を目撃した一女性が、驚愕のあまりに身体が痙攣し、その挙げ句に脱糞する場面が出てくる。こんな具合だ。

「戦闘が行われている方向に向けた自分の巨大な臀部にぷすぷすと銃弾が食い込むことを想像し、彼女は恐怖に『ぶう』と呻いた・・・やがて南夫人は激しく下痢をし、パンティの中へ猛烈な勢いで大量に脱糞した」

この文章を読む限り、筒井のスカトロジーは行儀をわきまえているようだ。一方ゲームの世界の登場人物である女(穂高)が、全裸で町を走り回る場面の描写は、あまりエロティックな雰囲気を感じさせない。そこはこんな具合だ。

「裸の女が走りまわっている。あれは『まぼろしの遊撃隊』の穂高だ。この近くにはゲーム・センターが多いから、その宣伝だろう。だって、まる裸なんだぜ。早くも商店街をそんな噂が走る。パチンコ店の並びの婦人肌着を売る店では、好色の親爺がピンクのパンティを用意して待ち、鍋倉に続いて駆け出てきた穂高の前に立ちふさがって、にやにやしながら手に持ったパンティをぴらぴらさせる。いかに穂高とて女、パンティは欲しがる筈という馬鹿な考えからお近づきになりたい下心。正面に立ったそんな親爺を突き飛ばし、仰向けにひっくりかえった親爺の顔面を踏んづけ、親爺の折れた前歯が足の裏に突き刺さったのも意に介さず穂高は走る」

ところで題名の「夜のガスパール」はどういうつもりで付けたのか。この言葉は小説の中で二度出てくる。一度目は、橘めぐみの家でのパーティの場面で、舵安社長が自分の一物に言及するところ。こんな具合だ。

「まあ社長、とてもお歳とはおもえませんわね。お元気ですこと」
「わはははは。このことですかな奥さん」舵安社長はズボンの膨らみを手の甲でぽんと叩く。「わしはこいつのことを『朝のガスパール』と呼んでいましてな。いまだに起きたときにはこいつがやって来おるんですわ」

つまりここでは朝立ちした男根を「朝のガスパール」と呼んでいるわけである。

二度目は小説の最後の場面近くで、櫟沢夫妻が会話する中でだ。こんな具合だ。

「悪ふざけはやめてください。朝のガスパール氏はどこにいるのですか」
「ほかのところにいないとすれば、奴は地獄だ」
「おお。わかったぞ」櫟沢は嬉しげに叫ぶ。「それでは朝のガスパールとは」
「そうさ。悪魔さ」

これは前後の文脈を無視していきなり現れるので、読者は面食らってしまうばかりだ。悪魔である朝のガスパールとはいったい何者なんだと。

「朝のガスパール」がアロイジュス・ベルトランの詩集「夜のガスパール」のパロディらしいことはなんとかわかるのだが、両者の関係がどうなっているかは小説の字面からはよく読み取れない。筒井は小説の冒頭近くで「夜のガスパール」の一節を引用しているだけなのだが、その引用からは朝夜二つのガスパールがどのような関係にあるのかは読み取れないのだ。だが小説としては、それでよいのかもしれない。





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